Category: 著作権

JASRAC vs 音楽教室 の件について少し考えてみる

JASRACが音楽教室に著作物利用料請求する方針を発表して、世間は盛り上がっています。いろいろな意見が出ており、簡単には解決しなそうなので、少しだけ論点を整理してみたいと思います。

この問題はまず、音楽教室での演奏が著作権法上の「演奏(実演)」に当たるかどうかが問題なわけです。

もし演奏に当たらないなら、さすがのJASRACも利用料を請求することはできません。

逆にもし演奏に当たるなら、音楽教室は利用料を払わないとは言えないでしょう。

それでは結局演奏に当たるのかどうかについては、ドンピシャの判例・裁判例がないため、よくわからないわけです。

条文を見れば、音楽を「公衆に直接見せ又は聞かせることを目的として」演奏するには著作権者の許諾が必要(著22条)となっており、「公衆」には「特定かつ多数の者を含む」(著2条5項)とされています。この定義をみても、音楽教室の生徒さんが「公衆」に該当するかは微妙で、JASRACの請求に合理性があるかは、よくわかりません。

更には、仮に演奏に該当するとしても、著作権が制限される場合に該当するかの検討も必要です。演奏権については、

  1. 営利を目的とせず
  2. 聴衆又は観衆から料金を受けず
  3. 実演家に対し報酬が支払われない

のすべてを満たす場合には、著作権が及ばないことになっています。(まぁしかし、有料の音楽教室では、これはいずれも満たすことはできないでしょう。)

音楽教室での演奏が著作権法上の「演奏」に該当するかについては、かなり昔から両者の間で意見対立があったようで、「音楽教育を守る会」なる団体がいきなり設立されたのも、十分な準備期間があったからでしょう。以下の記事などでは「守る会側がJASRACを訴える」と煽り気味に書いてありますが、まだ利用料が請求されていない段階なので、請求の妥当性を争うことはできません。あるとしても、音楽教室での演奏が著作権法上の演奏に該当しないこと(JASRACに対する債務が不存在であること)の確認訴訟を提起するくらいでしょう。

これで白黒つけば本件は解決しそうなものですが、そうは簡単にいかなそうです。仮に「演奏に該当する」と判断された場合でも、音楽教室側が反発しそうだからです。

音楽教室側はずっと「音楽教育に悪影響を与える」と言っています。すなわち、仮に著作権侵害でも利用料の請求は免除されるべき、という趣旨の主張をしていると思われます。これを日本という国で認めますかという問題があるわけです。

この点については様々な意見があるでしょうが、例えば学習塾が教材をコピーしまくっても、教育目的だから許されるかというと、それは受け入れられない人が多いでしょう。出版社は教材を買ってくれというはずです。日本では、教育目的であることは、著作物の利用の免罪符とはなりません。適切な利用料を支払えば利用することができるという形でバランスをとっているからです。学習塾での複製と音楽教室での演奏の違いはどこにあるのか?という問いに、音楽教室側は答えていく必要があるでしょう。

今回、JASRACが提案する利用料は、受講料の2.5%だそうです。この数字の妥当性はかなり慎重に検討されるべきですが、仮にこの数字が採用された場合でも、例えば受講料(月謝)が5000円の場合に、著作物利用料は、月間125円(年間1500円)です。これが受講料に上乗せされたとしても、それを理由に音楽教育から離れないといけない人は、ほとんどいないでしょう。

音楽教育を受ける人の中には、将来社会に対して音楽を提供する立場になる人も当然いるはずです。そうした人たちが自分の著作物に対する利用料をちゃんと請求できるようになるために、自分が利用するものについては、利用料をちゃんと支払う経験をさせることが、より音楽教育に資するという考え方もできるかもしれません(もちろん著作権法上の根拠がある場合のみです)。

ただし、そもそも演奏権は、コンサートなどでたくさんの人に演奏を聞かせる場合に著作物利用料を払いなさい、ということを想定しているわけです。観客は、チケット代にその費用が含まれていることに、当然納得しているでしょう。そのような条文を根拠に、音楽教室での演奏にも権利が及ぶと解釈するのは、一般の感覚としてはなかなか受け入れられないかもしれません。仮に条文上該当せざるを得ない場合でも、利用料率には十分な配慮をするとか、そもそも権利者に十分なコンセンサスを得るなどのステップを経てから運用を開始するべきだと思います。

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『フランク三浦』商標についての記事が読売新聞&朝日新聞に掲載されました

『フランク三浦』問題について、5月17日に、私の記事が読売新聞オンライン版・深読みチャンネル内に掲載されましたのでご紹介いたします。

また、朝日新聞にも同問題について解説が掲載されました。こちらはコメントを提供したのみですが、同内容が新聞紙(夕刊)にも掲載されました。

基本的には記事に書いてあるとおりなのですが、多少解説を加えておきます。

事の発端は、『フランク三浦』というパロディ商品があり、これを製造・販売する会社(株式会社ディンクス)がこの商標を登録したところ、本家フランク・ミュラーが怒って無効審判を請求したことにあります。特許庁は商標登録を無効とする審決を出しましたが、ディンクス側はこれを不服として出訴(知財高裁に審決取消訴訟を提起)。知財高裁は、特許庁の判断を覆し、商標登録を維持する旨の判決を出しました。

本件の問題意識は、このようなパロディ商標の登録を認めていいのかというところにあります。何件か取材や問い合わせをいただいたのですが、そのほとんどが「パロディ商品を販売できる基準は何か」という内容でした。しかし今回は、そんなことは争われていませんし、判断もされていません。まずはここを明確にすることが重要です。

そこでパロディについて、知財法の観点から検討したわけですが、実は「パロディ」という概念にはあまりに多くのものが詰め込まれていて、まずはここを明確にしないと議論が錯綜します。記事執筆にあたり調べものをしている中で、本当に「パロディ」という側面から知財法上の問題を検討することが正しいのかという疑問すら持ちました。

そもそもパロディとは、著作権の世界で問題となるものです。例えば他人の絵画や写真を利用して、それに風刺的な意味を込めて新たな著作物を創作する行為などが問題になります。つい最近目にした例では、東京オリンピック招致にまつわる不正送金問題を揶揄する以下の画像などがこれに当たるでしょう(オリンピックエンブレムを1万円札で模しています)。

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なお、本画像は実際のタイム誌の表紙ではなく、それを模したコラージュ画像であるようです。そうすると、エンブレムの著作権についてはパロディが許されるとしても、タイム誌の表紙デザインの著作権については、別に議論する必要があるかもしれません。

このような創作行為は、著作権法上の翻案(場合によっては複製)に該当することがあるでしょうし、同一性保持権を侵害する可能性もあります。しかし同時に、表現の自由の観点から、これをできるだけ認めるべきともいえるわけです。

この点については、著作権法では、他人の著作物を利用(※この文脈では必ずしも著作権法上の「利用」や「使用」を指すわけではありません)して新しい著作物を創作した場合は、二次的著作物として別個に保護されることになっています。ただし、元の著作物の著作権を侵害することになるので、原則として権利者の許諾を得なさいというバランスの取り方をしています。

これに加えて、上記のようなパロディには、社会的・政治的な問題に対する思想や主張が表されている場合があります。このようなものには、特に表現の自由を厳格に守るべきとして、その制限により慎重な判断がなされるべきであり、この観点からパロディが問題になるといえます。すなわち、一般的な二次的著作物の中で、社会的・政治的な風刺を含むパロディについては、許諾がなくても、より許されやすい場合があるかもしれないのです。

このような観点からパロディの可否が議論されてきたわけですが、時代の変遷とともにその対象が広がっていき、社会的・政治的な要素を含まないものでもパロディなら許されるべきではないかという議論が、欧米を中心になされてきました(そしてそれを認めるべきという大きな流れがあったように思います)。

日本の著作権法では、パロディについての特別の規定はありませんし、判例・裁判例を見てもパロディだからどうという判断はされづらいようです。つまりパロディだからといって特別扱いせず、通常の著作権侵害事件と同様の基準で判断すればいいとされているように思われます。社会的・政治的な表現はパロディ以外のものでもなされることを考えると、それも妥当かなという気はします。

また日本特有の問題として、二次創作(いわゆる同人誌)という文化もあります。これも広い意味でパロディに含められますが、個人的には、パロディだから許されるとか、そういう議論には馴染まないように思います。主にファン活動の一環としてなされるものでしょうから、ファンの間、及び著作(権)者や出版社を含めた関係者の間の問題として考えればよいように思います。ただしクールジャパンのように国家戦略としてこれを推奨していくというならば、何らかの法的手当は必要かもしれません(この点についてはいずれ別稿で)。

このように、著作権の世界ではパロディは「表現の自由」という重要な人権と関わる問題であり、安易に制限してはならないという考えに説得力があるのですが、商標の世界では必ずしも同じではないように思います。

例えば今回のフランク三浦の腕時計、あれを販売することを「表現の自由」の観点から認める必要があるかというと、そんなことはないと思います。「フランク三浦」は、ギャグ目的だとはいえ、「フランク・ミュラー」という商標の周知・著名性を利用したブランドであることは明らかです。仮に世の中に「フランク・ミュラー」が存在しなかったら、「フランク三浦」の時計は同じような売上げや利益を出すことはできなかったでしょう。

一方でこのような利用のされ方をしてもフランク・ミュラー側にはほとんどメリットはないでしょうから、端的に、フランク三浦はフランク・ミュラーの周知・著名性にただ乗りして利益を得たといえます。これを日本という国で社会的に認めていいのかという議論がまずあるわけです。フランク三浦が単なるフランク・ミュラーの模倣品ではなく、独自の製品を開発・製造・販売しているとしても、それを凌駕する利益を「フランク・ミュラー」の周知・著名性から得ているならば、この点を日本国民としてどう考えますかという問題なわけです。

念の為ですが、日本の知的財産法の世界では、他人の先行投資などに「ただ乗り」すること自体を禁止してはいません。すなわち、ただ乗りしている=違法とはなりません。この点は重要なのですが、意外と勘違いされています。

例えば特許の世界では、出願された技術内容は、一定期間経過後に特許庁により強制的に開示されます。その情報を利用して、他社は新たな技術を開発するわけです(技術の累積的進歩)。これも他人の先行投資へのただ乗りといえますが、特許法ではこれを禁止するどころか、これこそが特許法の真の目的です。ただ乗りだからダメとはいえない好例でしょう。

商標や標章の世界では特許のような累積的な進歩という概念には馴染まないのですが、それでもただ乗りしたら即アウトとはなっていません。商標法では、ただ乗りした上で、本家と出所の混同をきたす程度に類似していたらアウトということになっていますし、一見するとただ乗りそのものを禁止しているように見える不正競争防止法2条1項2号も、結局は他人の商品等表示を希釈化する程度に類似していたらダメだといっています。このように、ただ乗りした上で、各法律(条文)が目的とする違法性を備えるものが禁止されるというのが日本の法律の枠組みなので、ただ乗りかどうかだけを議論しても不十分だということには注意が必要です。

ということで、フランク・ミュラーの周知・著名性に、言い換えればフランク・ミュラーのこれまでの巨額の投資にただ乗りをして、自らは利益を得る一方、フランク・ミュラーのブランド価値を下げてしまうかもしれないフランク三浦時計の存在を、日本国民はどう位置づけますかということを考えなければいけないわけです。(もっともこの点は(すなわちフランク・ミュラー商標の侵害をするかについては)争われていないので、議論しづらいかもしれませんが。)

今回は、このような問題に加えて、『フランク三浦』の商標登録を許すかどうかが争われたわけです。仮にフランク三浦時計の販売を許すとしても、商標登録はやりすぎだという意見もあるでしょう。『フランク三浦』が商標登録されるということは、フランク三浦は自らが他人の商標の模倣でありながら、自らの模倣を排除する権利を持つということを意味します(※もっともフランク三浦は模倣であっても本家とは商標非類似と判断されているので、類似商標の使用を排除することを同列に語ることはできないでしょうが)。個人的に問題だと思うのは、『フランク三浦』が商標登録されることによって、フランク・ミュラー側は『フランク・ミュラー』商標と類似する商標の一部の使用が制限される可能性がある点です。すなわち、両商標の類似範囲の重複部分(禁止権同士がぶつかる範囲)は双方とも使用できないわけですから、フランク・ミュラー側が使用できる商標の範囲がその分狭まったといえます。

例えば、『フランクミウラ』なるカタカナの商標は両方に類似する可能性が高く、これまでフランク・ミュラー側は(積極的にこれを独占使用できはしないけれども)他人を排除することで自らが実質的にこれを独占的に使用できたわけですが、『フランク三浦』商標登録のおかげで今後はこれを使用できません。これは微妙な例ですが、より現実的な問題(例えば『フランクミウラー』の場合はどうか、など)が生じる可能性は否定できません。使いたければ最初から商標登録しておけばいいと言われたらそれまでなのですが、フランク・ミュラー側にそのような負担を強いるだけの合理性が『フランク三浦』の商標登録にあるのかは、検討されてもいいでしょう。

このように、パロディについては、

  • そもそも著作権の世界で問題になった(表現の自由の観点から認めるべきという価値があった)
  • その対象が徐々に広がっていき、表現の自由とは無関係の、商売(商標)の世界にまでパロディの問題が生じるようになった
  • パロディ商品の販売が商標法上許されるかという議論に加え、ついにはパロディ商標を登録して他者の排除を認めていいかが問題となるようになった

という流れで書いたのですが、伝わっているでしょうか。

本来ならば、パロディ商品の販売は許してもいいが、その商標登録までは認められない、という価値観があってもいいように思いますが、おそらく実務上(あるいは現行法制度上)、侵害の場面と登録の場面の商標類否判断の基準の差は、そこまで大きくないと思われます。特に今回フランク三浦判決で示されたような「取引の実情」の参酌がされるのであれば、両者の間の差はほとんどないと言っていいかもしれません。

審査段階における「取引の実情」の参酌については、近年特に広く解釈されているようで、批判的な意見もあるようです。本件のように需要者層が異なるという要素は他の事例でも比較的頻繁に採用されており、ある意味「取引の実情」の定番の要素ともいえるものですが、将来販売される商品によって需要者層の重複が生じた際には、無効理由の根拠となるのか、その部分は権利範囲から外れると侵害訴訟で判断されるのか、あるいは一切影響しないのか、よくわかりません。すなわち、将来需要者層が重複した場合、『フランク三浦』は『フランク・ミュラー』の商標権侵害となるのか、その際に『フランク三浦』商標登録の存在はどうなるのか、不明です。

このようにいろいろ微妙な点を含んだ本件ですが、数少ない「パロディ×商標登録」の事例に重要な1つとして加わることは間違いないでしょう。朝日新聞で引用してもらった「フランク三浦は本気でパロディーをした」という表現はいくらかエキセントリックに聞こえるかもしれませんが、結局は独自の商品として需要者を開拓していったことで独自のブランドとして評価された、という意味です。本件で単なる模倣品とパロディとの差異を見出すとすれば、ここが最も重要なのではないでしょうか。

余談ですが、朝日新聞も読売新聞も、 Parody は「パロディー」なんですよね。私の感覚では「パロディ」なんですが、おそらく前者が正しいのでしょう。

これは表記ゆれと呼ばれる問題で、翻訳などをしてるとかなり頻繁に直面します。私は基本的には伸ばさないようにしていて、「スター」や「タブー」など明らかにおかしくなる場合のみ伸ばすようにしています。結局は好みの問題なのでしょうが、伸ばすかどうかだけで商標の類否判断に影響する事例が少なからずあることを考えると、少なくともブランド名ではこのあたり気を配った方がいいのでしょう。

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スキャン代行の著作権侵害訴訟、上告棄却で違法確定

タブレット端末や電子書籍リーダーの普及に伴い、従来の書籍(いわゆる紙の本)を裁断し、スキャンを代行するサービスが登場しました。ところが、そうしたサービスに対して、作家(著作権者)が著作権侵害(複製権侵害)を根拠にサービスの停止を求める訴訟を提起していた問題について、先日17日に最高裁が上告棄却の決定をしました。これによりスキャン代行サービスを違法とした知財高裁の判決が確定しました。

1) 原告(被上告人)代理人の福井健策弁護士は、自炊とは紙の書籍を自分でスキャンして電子データ化することをいうので、「自炊代行」は理論上あり得ず、表現として不正確なので、「スキャン代行」という言葉を用いる、という趣旨の発言をされており、本稿でもそれに従います。

本をスキャンして電子データ化する行為は、著作権法上の複製に該当します(著2条1項15号、同21条)。ただし、複製に該当する場合でも、それを個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内で使用(いわゆる個人使用)するときは、前記規定にかかわらず、複製できることになっています(著30条1項)。

今回問題とされたサービスは、本の所有者が本をスキャン代行業者に送って、代行業者が所有者の代わりに本を裁断・スキャンして、作成した電子データを顧客に送るというものです。スキャン後の書籍は送り返さずに破棄していたようです。こうしてスキャンする行為は個人使用には該当しないとして、著30条1項の要件を満たさず、ゆえに複製権侵害をするとして争われていました。

たしかに、条文の文言をみると、実際に複製(スキャン)しているのは代行業者であり、そしてその目的は「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」ではないことも明らかでしょうから、形式的に複製権を侵害するといえます。

しかし被告側は、(1)スキャン後には書籍を処分しているのでスキャン前後で著作物の数は変わっていないこと、(2)代行業者は本の所有者の補助者または手足に過ぎないこと、を理由に、そもそも書籍を複製していないか、仮に複製していても実質的な複製主体ではない、という趣旨の主張を行い、そもそも複製権侵害がないという主張をしていました。

また、上記(2)の主張をさらに著30条1項の規定と組み合わせて、複製の実質的な主体は本の所有者であるのだから、本件複製行為は私的使用の範囲であるという主張もしていました。

今回最高裁は上告を棄却したので、知財高裁の判断に特に新しい判断が加えられたわけではありません。知財高裁の判決言渡から約半年が経過しており、その間に多くの評釈が世に出されているので、本稿では法的な解釈には軽く触れる程度で省略させていただきます。

結論からいうと、知財高裁はほぼ形式論に従って複製権侵害の判断をしました。すなわち、(1)実際にスキャンを行っているのはスキャン代行業者なのだから、彼らが複製主体である。(2)そして、彼らはそれを営利目的の事業として行っているのだから、私的使用目的の範囲を超えて複製しているので、著30条1項の適用もない。ゆえに著作権侵害であると結論づけました。著作権法の条文の文言そのままであり、その意味で説得力のある判断です。

一方で、知財高裁のこのような判断に対しては、否定的な見解も多くあったようです。知財専門家の間ではむしろ、本件行為を複製権侵害とすべきではないとするものが多かったように思います。その理由は論者により様々なので一言ではまとめられませんが、本事案が過去の著作権訴訟に比べて特殊な事情を抱えていたことがひとつの原因だと考えられます。

これまで著作権の世界では、各ユーザーの行為が著作権侵害をすることは明らかだが、それに加えて、ユーザーの著作権侵害を助長するサービスを提供する者の著作権侵害も問えるか、という観点で問題が論じられることがありました。その中で、前述の「手足論」や「カラオケ法理」などの法理論が発展してきたという経緯があります2)

2) 例えば、著作権料を支払わないカラオケ機器を設置している店があったとします。著作権法上は、その店で歌った人が著作権侵害をすることになります(著22条)。しかし著作権者は、違法に歌った人をいちいち訴えていたらキリがありませんし、現実的ではありません。そこで、そのような違法行為を前提にしたサービスを提供したお店が著作権侵害をするという解釈はできないか、という文脈で発展してきたのがカラオケ法理や手足論です。

本件でも、代行業者を止めることでスキャン自体を止めたいという事情があったものと思われますが、実は本件は、本の所有者が自らスキャンを行った場合は、著30条1項の適用により、著作権を侵害しません。同じ本を所有者自らがスキャンした場合は著作権侵害とならないのに、代行業者を通じてスキャンすると(代行業者が)著作権侵害するという判断結果には違和感があるように思います。しかも、代行業者が得る手数料は、純粋にサービスの手数料であって、本来著作権者が得るべき利益を横取りしているわけでもありません(※実際に、本件訴訟ではスキャンによる損害賠償は請求されていません)。代行業者によるスキャンそのものに何らかの違法性を見出さないといけませんが、何かあるのでしょうか。

この点については、(1)スキャンデータ(ほとんどの場合PDF)にはDRM(コピーガード)がなく、一度電子化されてしまうとインターネットを介して無制限に拡散してしまうこと、(2)スキャン後に裁断された書籍がネットオークションなどで販売されるとそのぶん書籍の販売機会が奪われること、などが指摘されています。なるほど、これらは所有者が自らスキャンした場合でも変わらないとはいえ、代行業者を利用することで電子化される書籍の数や種類が大きく増えるという点には着目すべきかもしれません。著30条1項の趣旨は、個人が自分や家族など極めて限定された範囲内で使用する場合は、著作権者に与える不利益が小さい一方、そのような複製にまで逐一許諾を求めないといけないとすると権利者・利用者双方にとって負担が大きいため、例外的に自由な複製を認めようというものなので、代行業者が業務用機器などを用いて大量に複製するものまでは対象としないとする立場には一定の説得力があるように思われます(※この点は知財高裁でも指摘されています)。

ただこの論法だと、私的使用目的だが大量に複製する場合の違法性が問えるのかとか、そのような機器を個人に販売する業者は著作権侵害の責任を負うのか、という疑問もやはり出てきます(※現実にはいずれも否定されるでしょう)。本来は「私的使用目的かどうか」という基準がそもそも上述の矛盾を抱えているように思われますし、そのような矛盾の中で敢えて「私的使用目的」という基準が設けられていることを考えると、知財高裁が行ったように形式的に複製主体で判断するのもやむなしかという気もしてきます。あるいは個別の事例ごとに複製の違法性について柔軟な判断がなされればいいのでしょうが、現行の著作権法の枠組みでは難しいでしょう。

もしこれがスキャン代行(自炊代行)のみの問題ならば、それほど大きな問題ではないかもしれません。そもそもスキャン代行業の市場はあまり大きくないでしょうし、ほとんどの代行業者は他の事業の片手間にスキャン代行も行っていると思われるので、スキャン代行ができなくなったとしても、それ自体が社会問題となることはないのかもしれません。また、作家(著作権者)の中でもスキャン代行を排除したい人と受認したい人がいるでしょうから、とりあえず本件訴訟の原告による書籍のみをスキャンの対象から外して、今後も警告書が届くなどしたらその作家のスキャンをやめれば、スキャン代行自体は継続できるでしょう。

問題は、本件判決の射程距離が、書籍のスキャン以外の電子化代行サービスにまで及ぶのかという点にあると思われます。既にあらゆるものを電子データで保存する時代になりました。そうしたものの電子データ化において、どこまで著作権の問題に向き合わないといけないのかは、まさにいま日本の著作権法が直面している課題といえるでしょう。現行著作権法はデジタル時代に対応できていないとよく言われます。DVDのリッピングや、4K番組の録画制限などの問題も、その一例でしょう。本件判決の基準では、他人の著作物を複製する際は、あくまでも形式的に「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」で行わないといけないと言っているように読めます。書籍にかぎらず、電子データ化を代行するサービスはすべて複製権を侵害すると言わんばかりの内容です。そうだとすると、本判決の意義はかなり大きいと思われます。

結局のところ、電子書籍の世界はまだ成長途中なのだと思います。一見すると、紙の本なのか電子データの本なのかという違いに過ぎないと思えますが、我々が紙の本を買うことと電子書籍を買うことには大きな差があります。紙の本を買うということは、その本(物理的な意味での本)の所有権を手に入れることと同義です。一方で、電子書籍を買っても、通常はその電子データの使用許諾をもらうに過ぎません。例えばAmazonのKindle本を購入したとしても、そこで手に入れられるのは、その電子データへアクセスする権利だけです。仮に将来Amazonが電子書籍事業を廃止したら、ユーザーの手元に電子データは残りません(それ以降はその本を読むことができなくなります)。そういう意味で、紙の本を自分で電子データ化するという需要は一定程度存在し続けるでしょう。逆に作者側は、電子データの流通をコントロールできないような態様での電子書籍は排除したいと考えるはずです。本件訴訟は、浅田次郎、大沢在昌、永井豪、林真理子、東野圭吾、弘兼憲史、武論尊といった日本を代表する大作家・漫画家が原告となっています。当然裏では出版社が主体となって行動したことが容易に推察されます。紙で本を出している出版社が、DRMなしの書籍の電子データ化を防ごうとするのは当然ともいえます3)。今回の問題はそのような利害対立の中で生じたものです。

3) 個人的な感覚として、そもそも未だ電子書籍そのものに消極的な出版社が多いように思います。

スキャン代行が事業としてできないとなると、スキャン機器をレンタルする事業が出てくるかもしれません(既にあるかもしれません)。裁断機とスキャナを一定期間貸し出すサービスならば、複製を行うのはあくまでも本の所有者なので、どれだけ大量の本をスキャンしても著30条1項の範疇に落ちてくるでしょう(少なくとも知財高裁の判決からはそう読むしかありません)。こうした事業が盛んになり、自炊がより容易に行えるようになると、「紙の本を買う」→「スキャンする」→「裁断済みの本をヤフオクで売る」というサイクルが当然になるかもしれません。漫画などはそもそも市販の電子書籍もスキャンデータなので、紙の本を買って自炊する方に優位性がありそうです。そうなると、本はヤフオクで裁断済みのものを買えばよくなり、スキャン後にはまたその本をヤフオクで売ればいいわけですから、電子書籍の入手コストが限りなく安くなる可能性があります。もしそのような時代になったら、出版社はスキャン機器のレンタルや、裁断済みの本を販売することの違法性を問おうとするのでしょうか。そのような裁判が起こされたら是非結論を見てみたいものです。

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2015年を振り返って

先程、食事をしながら池上彰さんの番組を見ていたら、「パクリ」の特集をしていました。

その中で、次の行為はパクリの観点から問題になるか?というコーナーがあり、

葛飾北斎の絵を大胆にアレンジして、商業的なイベントのパンフレットに使用する

という問題の答えが「問題にならない」でした。しかしこれは正しくないでしょう。

問題にならないとする根拠は、「葛飾北斎の死後50年経過しているので、既に著作権が切れているのだから、いまさら何をしようが構わない」というものでした。しかしこれはかなり雑な説明です。

たしかに、絵画(美術)の著作物についての著作権は、著作者の死後50年で保護期間が満了します(著51条2項)。しかしこれはあくまでも著作財産権についての説明であり、著作者人格権については別途考慮する必要があります。

著作者人格権のひとつである同一性保持権では、著作物の改変に一定の制限を課しています。具体的には、著作者の意に反する改変をしてはいけないことになっています(著20条)。

同一性保持権(著作者人格権)は一身専属的であり、譲渡(相続を含む)することはできません(著59条)。すなわち、著作者が死亡した時点で、同一性保持権は満了します。しかし、著作者の死後も、著作者が生きていたら著作者人格権の侵害となる行為は禁止されます(著60条)。従って、葛飾北斎の絵画を勝手に改変すると、著作者人格権を侵害する行為として問題になる可能性があります。

では実際にはどのように問題になるのでしょうか。

差し止めや損害賠償などの民事的な請求は、遺族しかできません(著116条)。遺族とは、死亡した著作者の配偶者父母祖父母又は兄弟姉妹をいうので、これらの者がすべて(多くの場合、最終的に孫)が死亡してしまったらもはや民事的な請求はできません。

一方で、刑事的な観点からは、事情が異なります。著作者の死後に、著作者が生きていたら著作者人格権の侵害となる行為(著60条)を行うと、500万円以下の罰金が課せられます(著120条)。しかも、これは遺族の告訴がなくても立件できます(非親告罪)(著123条反対解釈)。著60条には期間の定めがないので、結局、葛飾北斎の死後であっても、葛飾北斎が生きていたら意に反するであろう改変は未来永劫禁止され、これを勝手に行うと、検察により刑事訴訟を提起され、500万円以下の罰金が課せられてしまう可能性があります

番組では、葛飾北斎の絵を「そのまま利用して」パンフレットに使用する、という事例にすべきだったでしょう。

※もっとも、著作権法が存在しなかった江戸時代の絵画までが上記解釈になるかは、知りません。そもそも著作権(財産権・人格権ともに)が発生していないでしょうから、保護されることもないように思います。その場合は番組の解説のロジックもおかしいことになります。

さて、弊所は昨日(28日)で2015年の全業務を終了させていただきました。年明けは4日から業務開始いたします。なお、年末年始もメール・FAX・郵便でのお問い合わせは受け付けております。4日より順次対応いたします。

無事に年末を迎えられるのも、ひとえにクライアント様及び各方面のご関係者の皆様のおかげです。謹んでお礼申し上げます。

2015年を振り返って思うのは、今年は様々な「挑戦」の年でした。特に今年は、いろいろなご縁があり、個人や中小企業の方のご相談を受ける機会がかなり増えました。弊所はこれまで外国の大企業が主なクライアントであったため、初めて商標出願を行うようなお客様の出願を行うことにはあまり慣れておらず、ご迷惑をお掛けしてしまった部分もあったかもしれません。お詫び申し上げます。

おかげさまで、1年間の業務を通じて、そのような案件についても所内システムを構築することができ、いまではご相談〜出願〜登録まで、スムーズに運用できるようになりました。

また、ここ数年力を入れていた、模倣品対策事業も少しずつ形になってきました。特にECにおける模倣品対策では一定の実績を残すことができた点は、素直に自己評価したいと思います。来年はこの経験とノウハウを基に、より多くの権利者様のお手伝いをさせていただきたいと考えています。

来年も、もっと様々なことに挑戦し、皆様の貴重な資産である知的財産を適切に保護するお手伝いをして参る所存です。
より身近な特許事務所・弁理士となれるよう努力と工夫を重ねていくことをお約束して、2015年のご挨拶に代えさせていただきます。

OEM・ODMと知的財産

最近は中国の工場に小ロットで製造を依頼できるようになったため、個人レベルの方でも工場と直接取引きをしてオリジナル商品を製造する例がかなり増えました。

それは良いことなのですが、そのような商品を製造し、日本に輸入して、いざ販売するという段階で「この商品を販売しても法的な問題がないか教えてください(しかも無料で)」という問い合わせが結構あります。このようなお問い合せをfacebookなどの個人メッセージでいただいても対応できないので閉口しているのですが、それ以前に商売の進め方として問題があります。

多くの方は「これはOEM生産なので大丈夫だと思いますが、念の為専門家の意見を聴かせてください」などと仰るのですが、OEMであることと他人の知的財産権侵害をするかどうかは、基本的には関係ありません。

まずは用語の定義を明らかにすべきですが、OEM(Original Equipment Manufacturing)とは、自社で開発した商品を製造するときに、製造能力がないとか足りないなどの事情により、製造部分だけを他社に委託する製造方法をいいます。

他社工場で製造するものの、商品開発自体は独自に行うため、製造するのは当然オリジナル商品となりますし、商品には自社のブランド(ロゴなど)を入れることになります。製造にあたっては設計図や技術情報を製造業者に提供しますし、技術指導をしたり人員を供与することもあります。

また、ODM(Original Design Manufacturing)という製造方法もあります。これは製造を受託する工場側が商品のデザインまでを開発するケースで、そのデザインに自社のブランド(ロゴなど)を入れた商品を工場に製造させます。

私に問い合わせのあるケースの多くは、アリババで工場を探してそこに製造委託し、商品に自社の商標を印刷等しています。アリババでは通常、工場側が製造できる商品を写真付きで公開しているので、発注者は数量を指定してその商品の製造を委託します。その商品に自社のロゴなどを入れるか、せいぜい多少のデザイン変更をする程度の改変をするのみで、基本的には工場側が提示した商品をそのまま製造します。このような製造方法がOEMなのかODMなのかは難しいところですが、発注者側が商品開発にほとんど寄与していないことを考えると、ODMに分類するのがよいと思われます。

さて、こうして中国の工場を利用して自社ブランドの商品を簡単にODMできる時代になったわけですが、そのような方法で製造した商品も、単に中国商品を転売する場合と比べて、知的財産権侵害をするリスクはほとんど変わりません。これは上記の説明でおわかりいただけると思うのですが、独自に発注し製造させているとはいえ、その骨格は中国の工場が開発した商品にほとんど手を加えずそれを製造、輸入し、日本で販売するからです。中国で仕入れられる商品のほとんどが偽物であるという話を以前しましたが、アリババに出ている商品も中国工場がどこかの商品を模倣したものですから、それを自社のブランドの商品として製造させる方法も、同様にほとんどが偽物を製造していることになります。

このような偽物の製造方法が蔓延している原因には、「オリジナルを少し改変すれば偽物ではなくなる」という誤った認識があるものと思われます。知的財産の世界では、他人の権利内容を少し改変すれば権利侵害とはならない、とはなっていません。例えば意匠権や商標権は、登録された意匠や商標と類似する意匠や商標まで権利が及ぶので、多少の改変をしても権利範囲に入ったままのケースが多くあります。また、権利範囲から外れるよう大きな改変をした場合は、別の権利の権利範囲に入ってしまう可能性があります。法的な構成はともかく、特許権や実用新案権、著作権、あるいは不正競争防止法でも事情はほぼ同じです。結局、少し改変したしたかどうかではなく、自分が製造・輸入・販売する商品が他人の知的財産権を侵害するかどうかを確認することが重要なのです。

実際に、従来のOEMまたはODMでは、製造に入る前にこのような調査をすることが常識です。例えばアップルはほぼ100パーセントの商品をOEMしていることで有名ですが、開発段階で世界中の知的財産権の調査をしているはずです。また、多くの日本企業も中国の工場と提携してOEM生産をしていますが、やはり開発段階、少なくとも製造前にはこうした調査をすることが常識です。弊社にご依頼いただく調査も、当然ほぼすべてがこのような段階で行うものです。そのような前提のもとに日本で流通する中国商品の品質や合法性が保たれているのであって、単にアリババで発見した商品をOEM/ODMした商品について同列に語ろうとすることはできません。

その意味で、販売前に違法性の調査を依頼してくる人は一見正しいのですが、いかんせん「オリジナルを少し改変すれば偽物ではなくなる」という考えのもとに既に商品を製造し、日本に輸入までしてしまっているので、もはや権利侵害を議論すべき段階をかなり過ぎてしまっていることになります。本来ならば製造に入る前、商品の開発段階でそのような検討すべきでしたが、自社で開発をしていないので検討することができなかったのでしょう。そもそも販売直前の段階で調査を依頼し、販売NGの調査結果が出た場合はどうするつもりなのでしょうか。「多少改変しているのだから法律上問題ない」という前提がそもそも誤っているので、せめて発注する前にご相談いただきたいものです(それでも無料でアドバイスできる範囲は限られてしまいますが)。

なお、アリババなどのネットを用いず、中国の工場に直接サンプル(他社商品)を持ち込み、それの類似商品を製造するよう交渉するやり方は昔からありますが、これが単に偽物を製造しているということはいうまでもありません。特に最近はそうして製造した偽物を日本のネットで誰でも簡単に販売できるため、日本人による偽物のOEM/ODM生産はますます増加しています。ネット上で自社商品の偽物が販売されていることを発見したら、すぐに専門家に相談されることをお勧めいたします。

東京五輪エンブレム問題から考える日本人の模倣意識と企業のリスク管理

佐野研二郎氏による東京五輪エンブレムが使用中止となり、再公募となりました。

しかしどうにもしっくりこない方も多いと思います。私も以前から佐野氏のエンブレムは取下げるべきと考えていましたが、今回同様の判断に至った経緯や理由には感覚的に納得できない部分も多くあります。少し掘り下げて考えてみようと思います。

佐野エンブレムの法的な問題

当初は商標権などが騒がれましたが、どうやら商標登録自体が存在しないようなので、もはや著作権の議論のみをすれば十分だと思います。著作権については過去にこのブログでも取り上げており([1][2])、特に追加すべき情報はないのですが、簡単にまとめてみます。結論からいうと、佐野エンブレムは、他人の著作権侵害をしない可能性が高いと考えられます。

著作物性

今回問題となっているのはベルギーの劇場のロゴとして使われている、ベルギー人デザイナー、ドビさんによるものです。そもそもこのロゴに著作権が発生していなければ著作権法上の問題が生じるわけがありません。

この点については、弁護士の福井健策先生が著作物性なしとお考えだという話を聞きました(未検証です、不正確であれば訂正します)。もしその通りなら、そもそも著作権侵害が発生するわけもないので、ここで議論は終了です。ただ他の専門家には、著作物性ありと考える方が多いようです。私もそう考えています。そうすると、その著作権を侵害するかどうかを検証しないといけません。

余談ですが、先日SNSで、ある写真について「創作性が不十分な可能性があり、著作権が発生しているか怪しい」という趣旨の投稿をしたところ、「著作権は無方式で発生することを知らないのか」というトンチンカンなコメントをされました。上記説明したように、著作権侵害の議論をするには、まず対象となる創作物の著作物性(十分な創作性があり著作権が発生しているか)を議論する必要があります。写真ならば、その写真に撮影者の思想や感情が創作的に表現されているもののみに著作物性が認められ、著作権が発生するので、まずはこの点の確認をしなければなりません。写真であれば何でも著作権が発生しているわけではないというのは著作権法の基本です。

類似性

ドビさんの著作権を侵害するのは、佐野エンブレムがドビさんのロゴと(1)ほとんどまったく同じである(複製権侵害)か、(2)同じではないがかなり似ている(翻案権侵害)場合です。今回はほとんどまったく同じとは言えないでしょうから、両デザインがどれだけ似ているかが問題となります。

この点については、私の知っている限り、すべての専門家が「似ていない」と言っています。といっても積極的に調べたわけではないので、似ていると言っている方もいるかもしれません。これを判断できるのは裁判所だけですから、実際に裁判をしてみないことには誰にも断言できません。

ただ上述のとおり「似ていない」が趨勢だと思いますので、現段階では類似しない=翻案権を侵害しないと考えるのが無難だと思います。

依拠性

結局似ていないのですから、依拠性を検討するまでもなく佐野エンブレムはドビさんの著作権を侵害しません。

本ブログには「東京五輪+エンブレム+依拠性」の検索結果からの流入がかなりあるのですが、おそらくこの部分を理解していない方が多いのではないかと思います。「依拠性の証明ができればアウトといえる!」とお考えなのだと推測しますが、依拠性あり(=ドビさんのロゴをパクった)としても、両デザインが類似しない以上著作権侵害は成立しません。

なお、仮に依拠性の有無が最終的な争点になったとしても、依拠性ありと認められる可能性はあまり高くないと思われます。この点も以前に解説したとおりです。

結論

このように、佐野エンブレムの創作過程でドビさんのロゴを参考にしたか(要はパクったか)に関わらず、著作権法上の問題は生じないと思われます。つまり佐野エンブレムには法的な問題はないと考えられます。JOCもこの点は一貫して主張しており、使用中止会見でもやはり同趣旨の発言をしています。

日本人の模倣意識

「一般国民の理解」とはなにか

では法的な問題がないのに、なぜJOCは佐野エンブレムを取り下げたのでしょうか。

会見ではいくつか理由を挙げていますが、「展開例(写真)で転用があった」「佐野氏の希望があった」など、既に動き出しているエンブレムを取り下げる根拠としては弱すぎるものばかりです。結局、過去の模倣が次々と指摘されたため(なおそのほとんどは法的に問題ないものでしたが)、国民の佐野氏に対する不信感が募り、取り下げざるを得なくなったのでしょう。

ただ落ち着いて考えてみると、仮に佐野氏が過去に模倣をしていたとしても、その事実と五輪エンブレムの取り下げには直接の関係はないはずです。このあたりにJOCが「一般国民の理解を得られない懸念があった」と言う理由があるのでしょう。法的には問題なくても、過去に模倣をしていた人物が五輪エンブレムの作者であることは許せないという国民感情は無視できないということなのだと思います。

日本人にとっての「模倣」

いまの日本人は、模倣が大嫌いです。

以前ネットで中高生の議論を覗いた際の話です。「なぜ中国が嫌いなのか?」という問いに対して、最も多かった回答は、「パクるから」でした。日本人が生み出した技術やデザインは日本の財産であり、それが中国に盗まれると国益を損なうという感覚が、若い世代にも浸透しているようです。弁理士としてとても頼もしく感じます。わずか20年ほど昔までは、日本こそ模倣大国として、欧米先進国から軽蔑されていました。そうした模倣によってという部分もあるのですが、日本が経済成長を遂げ、逆に模倣される立場になった現在、このような価値観を持つ若者がいるということは、きっと将来の日本に役立つでしょう。

同様に、日本人は日本人自身による模倣にも非常に厳しい立場を貫きます。模倣は恥という価値観を、いまの日本人は共有しているように思います。特にオリンピックのように国際的なイベントでは、それが日本人全体の恥になるという感覚があるため、ここまで大きな問題に発展したものと思われます。

デザインの現場との意識の乖離

一方で、そうした日本人の意識が現実とずれている場合もあります。

今回の騒動で、多くの日本人が「デザインは毎回ゼロから創り出す」と考えていることがわかりました。しかし実際にはそんなことはありえません。例えばデザインというのは既にひとつの学問体系として認知されていますが、それは過去に生み出された数々のデザインから見出された事実を法則化したものです。これは当然他人のデザインを参考とすることを前提としています。さらに、もう少し狭い範囲の話でも、あるデザインを参照して、そのアイデアやコンセプトを利用し、新しい創作物を生み出すことも、デザインの現場では日常的に行われています。知的財産権法も当然そうした事実を想定しています。実際、デザインのアイデアやコンセプトを直接保護する法律はありません。例えば著作権法では、そのアイデアやコンセプトの「表現」しか保護しません。表現が保護されることで、結果としてそのアイデアやコンセプトが、その表現の範囲内で保護されることはありますが、アイデアやコンセプト全体が保護されるわけではありません。(なおデザインが物品と深く結びついているものについては、アイデアは意匠法による保護を受け得ます。)

そう考えると、今回指摘された佐野氏の数々の「模倣」には、そもそも著作権を侵害しないものもたくさん含まれていたことがわかってきます。だとすると、「佐野氏はたくさん模倣したから五輪エンブレムの作者として相応しくない」という指摘の前提を一部欠くことになるかもしれません。もっとも、単に他人の著作物を流用しているだけの、著作権侵害となるであろう模倣もいくつかありますので、その程度や件数のバランスで総合的に判断されるべき事項だといえます。

模倣はいけないというのは先進国民として正しい価値観だと思いますが、一方であまりに行き過ぎると現実と乖離したものとなってしまう可能性もあります。知的財産権法の観点からは、「やってはいけない模倣」と、「やっても構わない模倣」の両方があります。むしろ、知的財産法は、一定のルール内で積極的に模倣をさせることで産業や文化の発展を目指すことを目的としています。「模倣をしているから悪者」というのはかなり乱暴で危険だというのもまた真実です。

企業のリスク管理
発注企業の責任範囲

今回の騒動は、企業にとってもリスク管理を見直すきっかけとなる事例だと思います。

今回はエンブレムそのものには法的な問題はない(そもそも模倣でないか、仮に模倣でも「やっても構わない模倣」である)ものでしたが、デザイナーの過去作品に「やってはいけない模倣」があったことの影響を受けて取り下げに至ったものです。

企業がロゴやパンフレットのデザインを外注するときに、通常はそのロゴなどの権利関係はチェックしますが、外注したデザイナーの過去作品までを広くチェックすることはありません。発注企業にはそこまでの責任はないでしょうし、そもそもそのような調査は不可能なことが多いはずです。我々弁理士も様々な鑑定を行いますが、その責任範囲は対象となる技術やデザインのみで、作者の過去の活動までは責任を負いません(負えません)。

また、上述のように実際にデザインの現場ではそのデザインの一部に他人のアイデアやコンセプトを利用することは普通に行われており、それが「やっても構わない模倣」な場合にまで批判すべきとする価値観は、世界中どこにもないはずです。

パクリ問題への対応方法 – 初動が肝心 –

しかし今回のように、そのような「やっても構わない模倣」までもが批判の対象となってしまうと、もはや企業は怖くてデザインを外注できなくなるでしょうし、自社内でデザインすることはもっとリスクがあるのでそれもできない、結局あらゆるデザインの使用に大きなリスクがあるということにもなりかねません。実際サントリーなどは今回の騒動で一方的に被害を受けた形になっています(ただサントリーの場合は発注したデザインそのものに問題があったので確認不足の部分では一定の責任があるでしょうが)。

そういう意味で発注者側には頭の痛い問題ですが、今回は佐野氏本人を含め、JOCの対応のマズさが問題をここまで大きくしました。結局取り下げとなってしまったことを考えると、もっと早くその判断をしていればよかったのでしょう。逆にあのデザインでいくと決めたなら、雑音は無視しておけばそのうち沈静化したはずですから、中途半端に反応すべきではなかったかもしれません。そうした反応すべてが逆に新たな批判の火種を生んで、明らかに悪循環に陥っていました。

こういう問題はとにかく最初の判断が重要ですから、ケチらずに優秀な弁護士を雇って初動から一貫した対応をしていれば、もう少しソフトランディングができたかもしれません。「法的に問題ない」で済ませようとすると大きな問題となることがあるという、ひとつのモデルケースとなるでしょう。

DVDリッピングソフトのダウンロードURLをリンクした人が逮捕された事例

DVDリッピングソフトをアップロードした人と、そのサイトのURLを自己のWebサイトにリンクした人が逮捕及び書類送検されました。なかなか衝撃的なニュースなのですが、リンクを張る行為と著作権侵害の関係について考える良い事例となりそうです。

DVD Shrink とは?

市販やレンタルのDVDから、データをまるまる吸い出して、PC上のソフトで映像を再生したり、空のDVDメディアに書き込んで事実上DVDのコピーを作成するソフトのようです。

簡単に検索できるので提供サイト(オリジナル)のURLを掲載しておきますが、アクセスすると自動でダウンロードが始まるようですので、お気をつけください。なお筆者はMacを使用しており、OSが対応していないという警告が出たため、実際に何がどのようにダウンロードされるのかは未検証です。

http://www.dvdshrink.org/
アップロードした人

さてまず、アップロードした人の罪の内容を考えてみます。こちらは自己が運営するWebサイトにリッピングソフトの「DVDShrink日本語版」をアップロードして、そのサイトからダウンロードできるようにしていました。この人がどういう立場の人なのか、つまりDVDShrinkの製作者なのか単にそのコピーを配っていただけなのかはよくわかりませんが、記事を読む限り後者であるという印象を受けます(以下その前提で書きます)。

この人はリッピングソフトのコピーをダウンロードできるようにしていた行為が著作権侵害だと判断されたわけですが、現段階ではまだ逮捕及び書類送検されたのみで、著作権侵害(著作権法違反罪)の内容については詳細がわかりません。理論上は、以下の2つのケースが考えられます。

  1. 他人の著作物(コンピュータ・プログラム)を無断で複製及び公衆送信(可能化)したことによる、複製権及び公衆送信権の侵害罪(著119条)
  2. 技術的保護手段の回避を機能とするプログラムを公衆送信(可能化)したことによる罪(著120条の2第1号)
複製権及び公衆送信権親告罪の可能性

本件はおそらく、DVDShrinkを私的利用の範囲を超えて、著作権者(ソフト開発者)に無断で複製したり、それをアップロード(公衆送信可能化)していたものと思われます。それらの行為が、DVDShrinkについての著作権(複製権や公衆送信権)を侵害することは間違いないので、それを理由として逮捕された可能性もあります。例えば音楽や映画の違法コピーをWebサーバにアップロードした人が、著作権侵害を根拠に逮捕されることはこれまでにもありました。

ただ今回はこの可能性はあまり高くないと思います。複製権や公衆送信権を侵害する罪については、親告罪となっています(著123条1項)。今回はDVDShrinkという、ある意味違法行為に利用されるソフトの著作権が侵害されているわけですが、そのようなソフトの著作権者の告訴を警察が要求するとは考えづらいです。なお親告罪は著作権者からの告訴がなければ公訴が提起できない(検察が刑事裁判を起こせない)だけで、警察が逮捕する段階では公訴は必要ありません。著作権者侵害罪については、警察の判断で逮捕をして、警察は、著作権者からの告訴を待たずに、告訴の意思確認のみで逮捕をして(2015.09.12修正//ご指摘頂いた方、ありがとうございます)その後著作権者に告訴を依頼するという運用が実際に採られています。

著120条の2第1号の罪である可能性

市販の(レンタルを含みます)DVDには、コピープロテクトがかけられていることがほとんどです。このようなDVDを個人的に保存する目的でリッピングする行為は、以前は私的利用(著30条1項)の範囲であれば複製権侵害とはなりませんでしたが、2012年の著作権法改正により、複製権を侵害することとなりました(著30条1項2号)。

そして、リッピングソフトなどを提供した人には、刑事罰が科せられることになりました。

著作権法第120条の2第1項
次の各号のいずれかに該当する者は、三年以下の懲役若しくは三百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
一  (略…)技術的保護手段の回避を行うことをその機能とするプログラム(…略…)を公衆送信し、若しくは送信可能化する行為(…略…)をした者

この罪は親告罪ではないので、著作権者がどのような者であるかを考慮する必要はありません(権利者に告訴の協力を依頼するまでもなく検察が勝手に起訴すればいいのです)。今回はこの条文が初めて適用されたという報道がなされており、実際にそうなのだと思います(本当に初めてなのかは調べていなのでわかりませんが)。これまでリッピングソフトの譲渡は不正競争防止法違反として対応していました。今回改正後の条文が初めて使われたということで、(あくまで立件されていない段階ですが)先例的な価値があると言えそうです。

余談ですが・・・

実際に適用された事例を見て、著120条の2第1号が改正された意義は大きいと感じます。

もしこの条文がなければ、従来のカラオケ法理を利用して判断するしかないケースでしょう。しかしDVDのリッピングは、複製権侵害として損害賠償などの民事上の責任は負うものの、刑事罰の対象とはなっていません(著119条1項括弧書)。

とすると、(カラオケ法理を適用したときにリッピングソフトの提供が間接侵害なのか直接侵害なのかで議論はあるでしょうが、いずれにせよ)直接侵害をするエンドユーザの行為が刑事罰の対象ではないのに、リッピングソフトを提供する者だけが刑事罰の対象となるとするのは、刑法の原則からみて容易には受け入れられない解釈だと思われます。なのでこの条文を設けておく価値があるのだと思います。

リンクを張った人

今回の事件で何よりも大きな衝撃があるのは、このWebサイトにリンクを張った人(3人)までもが逮捕されていることです。

事案の概要としては、逮捕された3人のうち1人はDVDコピー関連本を出版する出版社の従業員であり、他の2人は編集プロダクションの従業員であるようです出典。彼らはDVDのコピーに関する本を出版しており、そこにDVDShrinkのダウンロードができるURL(本件とは無関係)を掲載していました。ところがそのサイトがDVDShrinkのアップロードを中止したため、DVDShrinkのダウンロードができる他のサイト(本件)のURLを発見し、自社のWebサイトからリンクを張っていました。この行為が、著作権法違反を幇助するとして逮捕されました。

幇助というのは、正犯の実行行為が前提となっています。上述のとおり、エンドユーザがDVDShrinkをダウンロードしたり使用したりすることに刑事的な違法性はないので、複製権や公衆送信権の侵害を幇助したわけではないでしょう。となると、もともと存在したWebサイトにリンクを張る行為が、そのサイトでのDVDShrinkの公衆送信を手助けすると警察は判断したと考えられます。リンクを張ることによって公衆送信する相手が増えることは間違いないでしょうから、その事実をもって著120条の2第1号の罪の幇助となるというと警察は考えているわけです。

今後は違法サイトにリンクを張ると逮捕されるのか?
従来の議論とのギャップ

本件は特殊なケースだと考えられます。なぜならば、従来「リンクを張る行為が著作権侵害罪(の幇助)となるか」という議論は、アップロードが違法である場合に、その違法行為を幇助するかという文脈でなされてきたものだからです。今回は、上述のとおり著作物をアップロードするという行為そのものは、(違法ではあるものの)逮捕の根拠とはされていないと思われます。今回はコピープロテクトを回避するという、特殊なソフトをアップロードした行為が正犯として問題となり、その配布サイトにリンクを貼る行為はそれを幇助するので従犯となるという、特殊なケースだと思われます。

従って、違法コピーを配布するサイトにリンクを張ったとしても、ただちに本件と同様の判断がなされるとはいえません。

この点については、リンク(直リン)を張っても著作権侵害罪の正犯とはならないという見解が、経済産業省により示されています(p.122)。

また、従犯となるかについては、リンクの埋め込みに関する事例ですが(そして民事ですが)、以下の裁判例があります。

これによると、

  1. 著作権者の明示又は黙示の許諾なしにアップロードされていることが,その内容や体裁上明らかではない著作物であり
  2. リンク先が違法アップロードであることを認識し得た時点で直ちにリンクを削除する

場合には、幇助とはならない旨が示されています。

逆にいうと、明らかな違法アップロード(映画やゲームのコピー)に直リンを張ると、著作権侵害の幇助となる可能性があるといえます。

TPPで非親告罪化されると・・・

TPP交渉では、著作権侵害罪の非親告罪化が議論されているようです。非親告罪化されても「コミケに警察が踏み込んで・・・」のような議論は杞憂に過ぎないと思いますが、違法コピーにリンクを張る行為が受ける影響については認識しておく必要があると思います。

現在は、著作権侵害(複製権・公衆送信権の侵害の罪)は、親告罪です(著123条1項)し、正犯に対する告訴は従犯にも効力が及びます(刑訴238条1項)。逆にいうと、著作権侵害罪では、従犯は正犯または従犯そのものが告訴されない限り、刑事罰の適用を受けることはありません。

しかし、これが非親告罪となると、違法コピーへのリンクを張る行為(従犯)についても、検察は告訴を待たずに起訴することができるようになります。そうすると、警察も「違法コピーへのリンクを張った」ことのみを対象として逮捕しやすくなる可能性があります。

デジタル時代の著作権

これだけデジタル化が進むと、多くの著作物が非常に容易に、違法にコピーされ、それが一瞬で世界中にばら撒かれてしまいます。現在の著作権法は明治時代に作られたものをベースにしていて、いろいろな部分で現代社会の実情に対応できていません。

その中で、学説や裁判例の積み重ねにより、カラオケ法理をはじめ「できるだけ上流で」侵害責任を問うような法律解釈が発展してきましたし、パッチ当て的ですが法改正もなされています。今回は法改正が効果的に機能した例と言えると思います。今後も本件のような新しい事件が次々と出てくると思います。そういう意味で著作権の世界は激動のさなかにあり、非常に面白いです。

東京五輪エンブレム問題の続報

先日「東京五輪エンブレム問題について考える」という記事を書いたところ、予想以上の反響がありました。

その後ロゴの創作者である佐野研二郎さんが会見を開かれたので、その内容を踏まえて続編を書いてみます。

会見の様子(動画)

さすがデザインの専門家、説得力があります。細かい説明は動画や記事を参照いただくとして、「要素は同じものがあるが、デザインに対する考え方が違うものでまったく似てない」という意見には着目する価値があります。

実はこの「一部の要素は同じだが、コンセプトが異なる」点については、ベルギーのロゴを作ったドビさんも同じ考えを持っているようです。現段階でソースがありませんが、昨日のニュースでそのような発言をしていました。類似する内容の記事がありました。

ドビさんの主張は、コンセプトは異なるが、自分のロゴには著作権がある、佐野さんのロゴは自分のロゴと類似するのだから、著作権侵害となる、という趣旨だと思われます。しかしこれは、少なくとも日本の著作権法の観点からはあまり説得力がありません。

著作権

前回の記事でも書きましたが、佐野さんのロゴを使用するとドビさんのロゴの著作権を侵害するといえるには、

  1. 佐野さんがドビさんのロゴを知った上でそれを利用してロゴを作成し(依拠性)、
  2. 結果として佐野さんのロゴがドビさんのロゴに類似する(=佐野さんのロゴがドビさんのロゴを変形した新しい著作物である)(類似性)、

といえることが必要です。

依拠性

つまり、そもそも佐野さんがドビさんのロゴを知らなかったのであれば、著作権侵害の前提(正確には要件のひとつ)を欠くことになり、著作権侵害をすることはありません。これはワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー事件(判昭和53 年9月7日)という裁判で最高裁により判断が示されたもので、それ以降これに基いて訴訟実務が行われています。

そして、この依拠性は、著作権者側、すなわちドビさんが立証する必要があるとされています。

佐野さんはベルギーには行ったことがなく、これまでにドビさんのロゴを見たことはないと言っています。それが正しければ、上述の通り著作権侵害とはならないのですが、問題はそう単純ではありません。

現実問題として、ドビさんが、「佐野さんがドビさんのロゴを知らなかったこと」を証明するのは極めて困難です。これは常識でわかると思います。他人が何を知っているか(知らないか)など、それこそわかりません。

そこで訴訟実務では、著作物が類似している(類似性を満たす)場合は、依拠性ありと推認して、立証責任を被告に転嫁することが多いようです。つまり、佐野さんが「創作時にドビさんのロゴを知らなかった」ことを証明することになります。

ところが、一般にはこれも困難です。いくら自分のこととはいえ、佐野さんは自分がロゴを知らなかったことを証明することはそう簡単にはできません。知っていた場合でさえ証拠が残っていないケースも多いでしょうから、知らなかった場合の証明はその何倍も大変でしょう。

そこで訴訟実務では、佐野さんが創作時(創作前)に先行するロゴをどれだけ調査したかを証拠として提出して、十分な調査をしたかを見ることにしています。もし訴訟になれば、佐野さんは「こういう範囲の資料を参照した(がその中にドビさんのものはなかった)」ことを証明することになると思われます。

なお、それならJOCが事前に商標調査をしたと言っているんだから、その調査資料が使えるはずという指摘があるようですが、おそらくそれは理論的に不可能です。

商標調査は通常調査対象となる商標が存在する前提で行います。つまりロゴが完成してから調査したのでしょう。

一方で著作権侵害における依拠性の調査は、創作前に他人の著作物をどれだけ調べたか(結果として知っていたか)を証明するためのものです。なので、創作後にした調査は依拠性の証明においては価値がないと思われます。

無方式主義の限界

したがって、ドビさんが主張するように、「どのようにしてロゴを思いつかたか(=ロゴのコンセプト)は関係なく、結果として似ているから著作権侵害だ」ということにはなりません。日本の著作権法では、まずどのようにしてロゴを思いついたかが重要なのです。ドビさんのロゴを知って真似したことが必要で、その上でロゴが似ている場合に初めて著作権侵害となります。

一方で、特許権や商標権などの産業財産権では、それらの権利の存在を知っていたかどうかは関係なく、結果として権利範囲の内容を実施や使用すれば権利侵害となります。これは、産業財産権が登録及び公開という過程を経るのに対して、著作権では一切の登録、特に公開がないことに起因しています。

商標権などの公開があるものは、商売をする以上公開情報を調査して権利侵害しないように注意する義務があるという価値観に基づいています。なので結果として類似してしまったものでも、権利の調査をしなかったことに落ち度があるので法的な責任を追うことになります。

しかし著作権は公開されないため、専門家であっても他人の権利を事前に調査することは容易でないことが多いです。そこで、他人の著作権の内容を知って敢えて模倣した場合に限って権利侵害するとしているのです。著作権者には厳しいと感じられるかもしれませが、そうでないといつ他人の著作権を侵害してしまうかわからず、怖くて誰も表現できなくなってしまいます。

類似性

前回の記事でも書いた通り、そもそも佐野さんのロゴはドビさんのロゴを翻案したものではないと思われます。

ドビさんのロゴは、ざっくりいうと中心の長方形と、左上及び右下の三角形様の図形、お世び外縁を定める円から構成されます。どの構成要素も基本的な図形ですが、これらの組み合わせ及び配置に表現上の特徴があるため、著作物足りえるものと思われます。

佐野さんのロゴは、これらの構成要素のうち、中心の長方形と、左上及び右下の三角形様の図形の組み合わせ及び配置において共通するか、少なくとも類似します。逆にいうと、それら以外のすべての構成要素はすべて佐野さんの独自の表現です。佐野さんのロゴには、右肩に赤い円という新規要素が追加されており、逆に外側の円は採用されていません。

ドビさんのロゴのように基本的な図形のみで構成される著作物は、それらの組み合わせや配置、配色などの大部分が共通するときに限り翻案となります。つまり、構成要素がありふれた図形の場合は、権利範囲は非常に狭くなるわけです。

ドビさんの主張は、下記の構造を含むあらゆる図形は、その用途に限らず常にドビさんの著作権を侵害すると言っているようなものですが、それは認められないでしょう。

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例えば小説などの文章の場合は、そのうちの一部分(例えば一章)が他人の著作物と類似していれば、その部分のみを切り取って著作権侵害を議論できます。

しかし図形の場合は、その一部の構成要素のみを抽出して著作権侵害を議論することは、一般にはナンセンスです。図形は全体でひとつの図形だからです。

佐野さんのロゴは、ドビさんのロゴと構成要素の一部が共通しますが、新たな構造が追加されるなど、全体としてドビさんのロゴとは類似しない別の表現と評価できるため、ドビさんの著作権を侵害しないと考えるべきと思われます。

なお、佐野さんの会見では、三角形様の図形が長方形に接しているかいないかという差異にも触れられているようです。たしかにこれにより両者の印象は異なるものになっているように思われます。また、ドビさんは書体が同じであると主張していましたが、佐野さんの説明では異なる書体のようです。そもそも共通する文字がTの一文字しかないので書体が類否判断に与える影響はそれほど大きくないと思いますが。依拠性の議論に影響する部分なので、この事実は意外と重要かもしれません。

意匠権

ところで前回記事に対して「五輪+エンブレム+意匠」というキーワードからの流入がいくつかあったのですが、これは問題となる意匠権の存在が指摘されていない以上、議論する価値はないと思われます。

そもそもロゴと意匠はあまり相性がよくありません。たしかに意匠法上の物品の形態には商品の模様も含まれるので、ロゴが意匠登録できないわけではありません。ただし意匠とはある物品の美的な外観ですので、そのロゴが物品の外観と密接不可分な特殊なケースに限って意匠登録する価値があるといえます。例えばロゴの形そのものをキーホルダーにする場合などは、意匠登録する意義があるかもしれません。物品の形状は複数選択できるがそれにロゴを付すような場合は、意匠権でなく商標権での保護を模索することになるでしょう。

東京五輪エンブレム問題について考える

すっかり乗り遅れてしまいましたが、先日発表された東京オリンピックのエンブレムが盗作だと騒がれている件について考えてみたいと思います。

いくつかの先行デザインとの類似性が問題とされているようですが、最も問題になっているのは、ベルギー人デザイナーのオリビエ・ドビさんによる劇場のロゴのようです。

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これとの関係について、法的な問題があるかをみていきます。

商標権
どの商標権?

商標権を侵害するかどうかの判断は、具体的に商標登録されている商標と比較する必要があります。当然指定商品(役務)との関係も考えないといけません。

今回は、ドビさん側が商標登録をしていると主張していると一部報道があるようですが、具体的にどの国でどの商標がどの指定商品(役務)について登録されているかの情報は見当たりません。弁理士の立場からは、このような状況で商標権侵害の議論を進めることは滑稽でしかありません。比較する対象がないのですから、侵害性など議論できるわけがありません。

各種報道ではドビさんのロゴと本件五輪ロゴを比較していますが、ナンセンスです。特許事務所にも、このように相手商品を持ってきて「これの意匠権を侵害しませんか?」といった相談が意外に多くあるのですが、意匠権や商標権は登録されている内容が権利範囲なので、権利者が販売している商品やロゴなどは(権利範囲の解釈に影響を与えることはあっても)侵害性の判断とは無関係です。まぁもしそのロゴがそのまま登録されていたらという前提で比較しているのだとは思いますが、その場合でも指定商品(役務)がわからないのですから、やはり侵害性の議論はできません。

茶飲み話ですが、ドビさんのロゴがそのまま商標登録されていて、指定商品(役務)も重複する場合、2つのロゴは類似するのでしょうか。

たしかにパッと見た印象は似ている気もします。中央に縦長の長方形が位置し、左上と右下に直角二等辺三角形様(ただし長編が弧状)の図形が配置されている点、そしてその構造により長方形を囲むように円が存在するかのような印象を与える点などが共通します。しかし、ドビさんの商標の外周は円形であり、そのため上記構造と合わせて二つの同心円を有する印象を与えるのに対して、東京五輪ロゴは外周が長方形(ほぼ正方形)である点で異なります。また、東京五輪ロゴには、上記長方形の右肩に円が配置されている点に大きな特徴があります。さらには、ドビさんの商標が白黒二色で構成されるのに対し、東京五輪ロゴは背景色を含めて五色が用いられているため、両商標が需要者に与える印象は大きく異なるといえます。総合的にみて、東京五輪ロゴはドビさんのロゴには類似しないと判断するのがよさそうです。

商標権侵害となるかどうかは、その商標を手がかりにふたつの商品やサービスを区別する場合に、両者を取り違えてしまうかどうかで判断されます。例えばドビさんのロゴが、オリンピックでない他の国際的なスポーツ大会のロゴとして用いられている場合に、東京五輪のロゴを見た人がその国際大会が開かれるのだと勘違いしてしまうかどうかがひとつの基準だと考えるとわかりやすいでしょう。

ただこれも結局は日本での判断基準に過ぎません。商標権の効力範囲の規定や解釈は国ごとに異なるわけですから、結局はどの国のどの商標権かを特定しないことにはまともに侵害の議論などできません。

商標調査をしたらしいですが・・・

IOCは事前に商標の調査をしたと言っているようですが、200カ国近い参加国すべてで調査をしたというならたいしたものです。莫大な調査費用がかかったことでしょう。

さらに、もし本当に調査をしていたとしても、今後他人の商標登録が発生したらその後は使用できなくなるわけですから、本来ならば自ら商標登録をしておくべきです。それも参加国のほぼすべてで登録しておく必要があるでしょう。

しかし過去の例では、ロゴ(エンブレム)はほとんど商標登録されていないようです(国際商標登録を軽く調べました)。一度発表してしまえば一瞬で世界中で周知になるので他人に登録されるリスクは少ないという判断かもしれません。

著作権

どうもここにきて、ドビさんは商標権よりも著作権を主張し始めたようです。

著作権の観点からはどうなのでしょうか?

知らなければ問題ない

東京五輪ロゴのデザイナーである佐野研二郎さんは、問題となるドビさんのロゴを知らなかったと言っています。

著作権侵害となるには、佐野さんがドビさんのロゴを知った上でそれを模倣することが必要です。もし佐野さんがドビさんのロゴを本当に知らなかったのであれば、ロゴの創作性や類似性を検討するまでもなく、著作権を侵害しないことになります。

ベルヌ条約によって、ある加盟国で著作権が発生したものは、同時にベルヌ条約の全加盟国で発生することになります(ただし創作性などは各国の基準で判断されます)。いまやベルヌ条約には160カ国程度が参加しています。日本もベルギーもベルヌ条約加盟国なので、ドビさんのロゴはオリンピック参加国のほぼすべての国で著作権が発生していることになります(著作物性の議論は省略します)。

東京五輪ロゴはいまのところ日本で発表されただけですから、仮にドビさんが問題にするならば、日本で著作権侵害を根拠に民事訴訟を提起するしかありません。しかし佐野さんが知っていたかどうか(依拠性)の証明はドビさん側がしないといけないのですが、これはかなり難しいと思われます。現実にドビさんが何か法的な利益を受ける可能性は少ないといえるでしょう。

そもそも翻案に該当しない?

また仮に本件の著作権(翻案権)侵害性を検討したとしても、両ロゴともに基本的な図形のみで構成されることと、両ロゴの色構成が大きく異なることを考えると、それらの構成要素の一部が共通するにすぎず、佐野さんのロゴからドビさんのロゴの表現上の本質的特徴を直接感得できるとまではいえないように思います(江差追分事件の基準)。

論点がグチャグチャ

連日の報道を見ていると、問題の所在はどこなのか、わけのわからないことになっています。権利を特定しないまま商標権侵害の議論をしたり、著作権侵害の議論をしているのに商標調査の主張をしたり、上記記事では「発表前に著作権登録をすべてチェックした。ベルギーの劇場のロゴは保護されていない」などと意味不明のことが書いてあります(ベルヌ条約未加盟で著作権が登録制の国(あるのか知りません)についての言及でしょうか?)。一度論点を整理しないと無駄な批判が延々と繰り返されるだけになると思います。

まとめ

「ロゴが似ている印象を与える」ことと、そのロゴ(の使用等)が知的財産権を侵害することは別問題です。上述のように、おそらく佐野さんのロゴは知的財産の観点からは問題ないと思われます。

仮に議論を続けるのであれば、少なくとも商標については権利が特定されるまでは無視で構わないでしょう。

著作権については、依拠性を含めて、翻案権の侵害にあたるかを専門的な観点から議論することは可能だと思います。そうした生産的な議論が進むことを期待したいところです。

追記
商標登録との関係

その後こんなニュースを見つけました。

この中で森元首相が「東京五輪ロゴは商標登録しているので問題ない」旨の発言をしていますが、これは間違いです。

そもそも東京五輪ロゴをどの国で商標登録(少なくとも出願)しているかわかりませんが、仮に日本で商標登録されていたとしても、その事実はドビさんの著作権を侵害するかどうかとは無関係です。日本の商標法では、他人の著作権を侵害する商標でも登録できます。その後著作権と抵触する部分の権利範囲を制限するというバランスの取り方をしています。

なので、仮に日本で商標登録されているとしても、ドビさんの著作権を侵害する可能性は残ります。

依拠性について

また読み返して、依拠性についてざっくりと書きすぎた印象があります。佐野さんが「知らない」と言って、ドビさんが知っていたことの証明をできないと著作権侵害とならないというのは、簡単に説明しすぎたかもしれません。訴訟実務では、著作物が類似する場合は、その事実をもって依拠性ありと判断されるケースもあります。その上で、創作時にどのような範囲の調査をしたか(どのような資料を参照したか)の立証責任が被告に転嫁されることが多いようです。となると結局、依拠していないことの立証は佐野さんがしなければならず、これに失敗したら著作権侵害が成立する可能性も出てきます(あくまでもロゴが類似する前提です)。

今回はどうやら、図形が似ているかどうかの議論だけでなく、用いられているフォントが同じだという事実もあるようです。もしかしたら、この図形とフォントの組み合わせはデザインの専門家なら普通に思いつくものであるかもしれませんし、そうでないかもしれません。このあたりはデザインの素人の私には判断できない部分ですが、だからこそ、訴訟では依拠性の判断がキーになる可能性もあります。

不正競争防止法

不競法はどうなんですか?というお問い合わせがあったので追記します。

上記のニュースで、ベルギー人と思われる方がドビさんのロゴを「誰も知らない」と言っています。これだけでは判断できませんが、少なくとも日本ではドビさんのロゴは周知でも著名でもないと思われるので、不正競争防止法が問題になることはないでしょう。

そもそもドビさんのロゴが劇場における何らかの役務を表示するか(役務表示に該当するか)、怪しいです。単に劇場のシンボルであったり、広告用のイメージロゴにすぎない場合は、役務表示にはならない可能性が高いです。また、仮に役務表示であるとしても、劇場とオリンピックの役務が類似することがあるのかの検討は依然必要でしょう。

ちなみにベルギーの不正競争防止法については、それがあるかどうかすらわかりません・・・。

マイケル・ジョーダンが中国で名前の無断商標登録を潰せなかった事例

中学高校とずっとバスケ部だったのですが、当時マイケル・ジョーダンはすべてのバスケ少年たちの憧れの的で、言葉では言い表せないほどの人気を誇っていました。

そのバスケの神様、マイケル・ジョーダンが、中国で「ジョーダン」の名称を勝手に商標登録されたとして争っていた件が決着しました。結論は、ジョーダン側の敗訴。バスケの神様も中国の法律には勝てなかったようです。

訴訟の内容
事案の概要

中国の乔丹体育という企業が、『乔丹』を含む複数の商標を中国で出願し、登録を得ました。『乔丹』は中国語で人名の「ジョーダン」を意味します。これに対してマイケル・ジョーダンは、自分の名前が勝手に商標登録されたとして、商標登録の無効宣告請求をしたものです。
なお以下の記事では「商標権侵害」となっていますが、本件は無効審決(無効宣告決定)に対する取消訴訟です

なお、本件無効宣告請求は、先だって行った異議申立が却下されたことを受けて、2012年に商標評審委員会に対してなされ、2014年4月に請求棄却(商標登録維持)の決定がなされました。これを受けて、ジョーダン側は今年の初めに北京市第一中級人民法院に審決取消訴訟を提起しましたが、そこでも敗訴しました。そのため、今年4月に北京市高級人民法院(日本でいう高裁)に上訴していました。

また本件とは直接関係ありませんが、訴えられた乔丹体育はこれらの訴訟等によりブランドイメージが低下し予定していた上場に失敗したとして、逆にジョーダン氏に損害賠償を求める訴訟を提起しています。

結論

請求棄却。商標登録維持。

裁判所の判断

北京市高級人民法院は、

  1. 乔丹が必ずしも”Jordan”に対応するわけではない点、
  2. “Jordan”は米国で一般的な姓または名である点、
  3. “Michael Jordan”の中国語表記は「迈克尔·乔丹」であるが、「乔丹」のみの商標が「迈克尔·乔丹」や”Michael Jordan”を示すことの証明がない点、

を理由に、「乔丹」はマイケル・ジョーダンの名前についての権利を侵害しないと結論付けました。

また、ジョーダン側は、乔丹体育が下記の図形を用いていたことから、「乔丹」がマイケル・ジョーダンに結びつくなどと主張しました。

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しかし人民法院は、このようなシルエットのみでは需要者はこの図形の人物がマイケル・ジョーダンであると判断できないとして、この主張を退けました。この文脈で、人民法院は、人格権たる肖像権が保護されるには、需要者が明確にその肖像を認識できなければならないことを指摘しています。

解説
ジョーダンと乔丹

人名の Jordan は、中国語(簡体字)では乔丹と表記されます。なお、「乔」という字は、日本語では「喬」に該当します。

乔丹のピンインは qiáo dān (チィァオ ダン)です。これはJordan の音から漢字を当てはめたパターンですが、[dʒɔ́ːrdn]と[qiáodān]の称呼がどの程度類似するか(Jordanから乔丹がただちに導かれるのか)を真剣に検討すると、多少面倒かもしれません。実際、人民法院は「乔丹」とJordanが必ずしも一対一対応しないと指摘しています。

ただ辞書で調べる限り中国語の「乔丹」は人名のJordanに一対一対応しているように思えます。このあたりは中国語に詳しい方の意見をきいてみたいところです。

余談ですが、Jordanには人名(ジョーダン)と国名(ヨルダン)の2種類の意味があります。中国語では、人名の場合は「乔丹」、国名の場合は「约旦(yuēdàn)」と、表記も発音も異なります。この点については日本語と同じですね。

中国商標法の規定 – 日本法との比較 –

乔丹は中国で商標登録されるべきなのでしょうか。中国商標法では、以下の規定があります。

第32条(旧31条)
商標登録出願は先に存在する他人の権利を侵害してはならない。(後段省略)

日本の商標法と比べると、だいぶ規定ぶりが異なります。

まず、日本の商標法では、このような包括的な規定にはなっていません。商標法4条1項各号に、登録できないケースが個別に列挙されています。一方で中国法では、かなりざっくりとくくってあり、具体的なケースは個別の案件ごとに判断する仕組みになっている点が特徴です。

さらに、「先に存在する他人の権利」なる概念は、日本の商標法ではありません。ここにいう「権利」には、意匠権や著作権、企業名などが広く含まれます。企業名などは商標登録されていない場合も含まれますから、このようなものまで出願の排除効を有するのは、日本の商標法よりも厳しい規定ぶりだといえます。今回は人名である「マイケル・ジョーダン」がこの権利である前提で争われました。

私見

マイケル・ジョーダンからすると、このような商標登録が潰せないのは非常につらいと思います。仮に先に自分で登録しようにも、不使用の問題があるので結局は意味がないことです。

人民法院は、要は「乔丹」と「マイケル・ジョーダン」が対応しないので、ジョーダンの氏名についての権利を侵害しない(ゆえに「乔丹」は商標登録されることができる)と結論付けました。ジョーダン側は、上述のようにシルエットからマイケル・ジョーダンが連想される点や、乔丹体育が背番号23番のユニフォームを販売していることから、需要者は「乔丹」からマイケル・ジョーダンを想起するなどと主張しましたが、認められませんでした。

たしかに「ジョーダン」は、米国で一般的な姓または名です。上記シルエットロゴからは、必ずしもマイケル・ジョーダンを想起できないという指摘も正しいでしょう。(ちなみにこのシルエットはNIKEが用いている下記の有名なシルエットを模倣したものと思われます。)

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左:NIKEがエアジョーダンシリーズに用いたロゴ 右:乔丹体育が用いているロゴ
右の図だけを見てマイケル・ジョーダンを想起するのはたしかに難しい

バスケファンにとっては、このロゴはむしろ下記NBAのロゴを連想させます(まぁたいして似ていないのですが)。ロゴから「NBA」あるいは「バスケ」しか連想しないとすると、「乔丹」とこのロゴの組み合わせでは、NBAに在籍する他のジョーダン選手(例えば現役では DeAndre Jordan や Jordan Hill)をも想起するので、やはり「乔丹」とマイケル・ジョーダンが一対一対応しないという指摘には一理あるように思います。

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NBAのロゴ。モデルは Jerry West

しかし、「ジョーダンという語」と「バスケ」の組み合わせでもマイケル・ジョーダンと対応しないとされてしまうと、もはや中国で自己の姓または名を他人に勝手に商標登録されてしまうことは防げないようにも思えてきます。乔丹体育は、「乔丹」は一般的な米国人の名前から取っただけで、マイケル・ジョーダンとは無関係であると主張していますが、さすがにこれは無理があります。中国ではバスケは日本に比べかなり人気のあるスポーツで、マイケル・ジョーダンは中国で最も有名な外国人の一人です。実際、下級審段階では、ジョーダン側は「「乔丹」という語を知っており、かつ真っ先にマイケル・ジョーダンを想起する需要者は、全国の63.8%にのぼる」という調査結果を証拠として提出しています。それでも、「乔丹」とマイケル・ジョーダンは必ずしも一対一対応しないからダメだというのですから、中国では、氏名ならともかく、ありふれたものの場合は姓または名のみを他人に商標登録されてしまうことは甘受するしかないといえるかもしれません。

しかし、中国商標法第32条では、人物の氏名についての権利は、その人の人格権を指すとされています。そうであるならば、必ずしも一対一対応のような厳格な基準を要求するのではなく、「乔丹」についての商標登録がマイケル・ジョーダンの人格権を損なうか、より本質的な議論があってもよいように思います。例えば、「乔丹」とマイケル・ジョーダンが一対一対応するかはそれほど重要ではなく、「乔丹」からマイケル・ジョーダンを強く連想するかどうかで判断すればよいのではないでしょうか。また本件では、マイケル・ジョーダンの著名性が判断にどれくらい影響を与えているのか不明です。仮に著名性が考慮されるのだとすると、マイケル・ジョーダンの著名性で足りないならばもはや全人類でこのような事例に対応できる人物はほとんどいないでしょうし、逆に著名性が一切考慮されないのだとすると、著名人の姓や名を不正な商標登録から保護することはやはり非常に難しいことになります。

なお、「乔丹体育」は中国では非常に有名な会社です。私の住んでいる義烏でも、近所のスーパーやコンビニではどこでも乔丹体育のボールなどを売っています。乔丹体育は1984年に設立され、その後これほど有名になり上場直前まで成長した会社ですから、中国国家としてこのブランドは守らなければならないという判断がはたらいたのかもしれません。そういう意味では、本件は多少特殊な事情があったのかもしれません。

日本の場合

仮に日本で『ジョーダン』なる商標が出願されたとしたら、どうなるでしょうか。

もし日本人の名前なら、ありふれた氏は登録になりません(商3条1項4号)。しかしジョーダンは日本ではありふれた氏ではないので、本規定をもっては拒絶されないでしょう。

本件の場合は、「他人の氏名の著名な略称」として登録拒絶になると思われます(商4条1項8号)。

商標法第4条第1項
八  他人の肖像又は他人の氏名若しくは名称若しくは著名な雅号、芸名若しくは筆名若しくはこれらの著名な略称を含む商標(その他人の承諾を得ているものを除く。)

「氏名」とはフルネームのことなので、「マイケル・ジョーダン」は、本人か、本人から許諾を得た人以外は登録できません。しかし「ジョーダン」は氏名ではないので、これに該当しません。氏または名のいずれか一方の場合は、それが著明な場合に限って本号に該当します。ジョーダンはマイケル・ジョーダンの略称として日本で著明だと思われるので、日本では本号を根拠に登録されないと思います。実際、「ジョーダン」の商標登録は、本日の時点で存在しません。

この規定は、上記私見で述べた「「乔丹」からマイケル・ジョーダンを強く連想するかどうか」という基準に近いものとなっているといえそうです。氏名の略称が著明なのであれば当然略称からその人物を連想するでしょうから、それを他人が勝手に商標登録すると人格権が損なわれると考えているわけです。

類似の事例

類似というほどではないのですが、同様に32条を根拠に登録性が争われた事例があります。

15073003

広州のステーキハウスが、上記ロゴを商標登録したところ、下記シカゴ・ブルズの著作権を侵害する商標だとして、NBAから異議申立及びその却下決定に対する不服審判を請求されました。

15073004

結局本件はその後中級人民法院を経て高級人民法院まであらそわれることとなり、最終的にNBA側の主張が認められて、上記商標登録は取り消されました。

著作権を侵害する商標だから登録できないという規定は、日本の商標制度の感覚からはにわかには受け入れられないかもしれません。日本では、他人の著作物であっても勝手に商標登録できることになっています(その著作物が周知な場合は登録できないこともあります)。その上で、著作権とぶつかる範囲の商標権の効力を制限するというバランスの取り方をしています。そうしないと、特許庁は審査段階でその商標が他人の著作物でないかを調査し判断する必要が出てきてしまいますが、商標の著作物性を判断するのは一般には難しいく、審査負担にも繋がってしまいます。

実際、上記事件でも、シカゴ・ブルズのロゴの著作権の帰属について延々と議論がされています。商32条違反を根拠にする無効審判では請求人適格が先行権利者または利害関係人に限られているため、著作権の権利の帰属が問題になるのです。異議申立、無効審判、中級法院、高級法院と争ってようやくNBAが上記ブルズロゴの著作権を有していることが認められました。

NBAがステーキハウスを経営する可能性は低く、自らの商標登録が現実的でないことから、こういう事態を防ぐには著作権登録をしておくことが有効だと考えられます。しかしすべてのロゴなどを著作権登録することも現実には難しく、また仮に著作権登録をするにしても、日本企業は日本で登録しておけば足りるのか、中国での登録が必要なのか(訴訟負担がどの程度軽減されるのか)、まだわかりません。

中国では、審査段階では先行する著作権等についての調査は行われないため、上記のような事例では一旦登録された後に異議申立や無効審判などで登録を潰すことになります。著作権に基づいて他人の不正な出願を排除できることはたしかに便利なのですが、著作権の管理を戦略的に行わないと実務上証明負担がかなり大きく、せっかく便利な規定も十分に活用できない点に注意が必要です。

上述のように中国商標法32条はかなりざっくりとした規定ぶりになっていて、どのような権利に基づいてどのような出願を排除できるかは、個別の事例ごとに、審判や裁判で闘う必要があります。しかしまだ事例が少なく、それらの基準が明らかになっていないものも多いようです。中国ではちょっとでも有名になり価値が出てくるとすぐに無断で商標登録されてしまうことがよくあります。国際的に活動する企業は常に最新の情報にアンテナを張っておくことが重要です。