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『フランク三浦』商標についての記事が読売新聞&朝日新聞に掲載されました

『フランク三浦』問題について、5月17日に、私の記事が読売新聞オンライン版・深読みチャンネル内に掲載されましたのでご紹介いたします。

また、朝日新聞にも同問題について解説が掲載されました。こちらはコメントを提供したのみですが、同内容が新聞紙(夕刊)にも掲載されました。

基本的には記事に書いてあるとおりなのですが、多少解説を加えておきます。

事の発端は、『フランク三浦』というパロディ商品があり、これを製造・販売する会社(株式会社ディンクス)がこの商標を登録したところ、本家フランク・ミュラーが怒って無効審判を請求したことにあります。特許庁は商標登録を無効とする審決を出しましたが、ディンクス側はこれを不服として出訴(知財高裁に審決取消訴訟を提起)。知財高裁は、特許庁の判断を覆し、商標登録を維持する旨の判決を出しました。

本件の問題意識は、このようなパロディ商標の登録を認めていいのかというところにあります。何件か取材や問い合わせをいただいたのですが、そのほとんどが「パロディ商品を販売できる基準は何か」という内容でした。しかし今回は、そんなことは争われていませんし、判断もされていません。まずはここを明確にすることが重要です。

そこでパロディについて、知財法の観点から検討したわけですが、実は「パロディ」という概念にはあまりに多くのものが詰め込まれていて、まずはここを明確にしないと議論が錯綜します。記事執筆にあたり調べものをしている中で、本当に「パロディ」という側面から知財法上の問題を検討することが正しいのかという疑問すら持ちました。

そもそもパロディとは、著作権の世界で問題となるものです。例えば他人の絵画や写真を利用して、それに風刺的な意味を込めて新たな著作物を創作する行為などが問題になります。つい最近目にした例では、東京オリンピック招致にまつわる不正送金問題を揶揄する以下の画像などがこれに当たるでしょう(オリンピックエンブレムを1万円札で模しています)。

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なお、本画像は実際のタイム誌の表紙ではなく、それを模したコラージュ画像であるようです。そうすると、エンブレムの著作権についてはパロディが許されるとしても、タイム誌の表紙デザインの著作権については、別に議論する必要があるかもしれません。

このような創作行為は、著作権法上の翻案(場合によっては複製)に該当することがあるでしょうし、同一性保持権を侵害する可能性もあります。しかし同時に、表現の自由の観点から、これをできるだけ認めるべきともいえるわけです。

この点については、著作権法では、他人の著作物を利用(※この文脈では必ずしも著作権法上の「利用」や「使用」を指すわけではありません)して新しい著作物を創作した場合は、二次的著作物として別個に保護されることになっています。ただし、元の著作物の著作権を侵害することになるので、原則として権利者の許諾を得なさいというバランスの取り方をしています。

これに加えて、上記のようなパロディには、社会的・政治的な問題に対する思想や主張が表されている場合があります。このようなものには、特に表現の自由を厳格に守るべきとして、その制限により慎重な判断がなされるべきであり、この観点からパロディが問題になるといえます。すなわち、一般的な二次的著作物の中で、社会的・政治的な風刺を含むパロディについては、許諾がなくても、より許されやすい場合があるかもしれないのです。

このような観点からパロディの可否が議論されてきたわけですが、時代の変遷とともにその対象が広がっていき、社会的・政治的な要素を含まないものでもパロディなら許されるべきではないかという議論が、欧米を中心になされてきました(そしてそれを認めるべきという大きな流れがあったように思います)。

日本の著作権法では、パロディについての特別の規定はありませんし、判例・裁判例を見てもパロディだからどうという判断はされづらいようです。つまりパロディだからといって特別扱いせず、通常の著作権侵害事件と同様の基準で判断すればいいとされているように思われます。社会的・政治的な表現はパロディ以外のものでもなされることを考えると、それも妥当かなという気はします。

また日本特有の問題として、二次創作(いわゆる同人誌)という文化もあります。これも広い意味でパロディに含められますが、個人的には、パロディだから許されるとか、そういう議論には馴染まないように思います。主にファン活動の一環としてなされるものでしょうから、ファンの間、及び著作(権)者や出版社を含めた関係者の間の問題として考えればよいように思います。ただしクールジャパンのように国家戦略としてこれを推奨していくというならば、何らかの法的手当は必要かもしれません(この点についてはいずれ別稿で)。

このように、著作権の世界ではパロディは「表現の自由」という重要な人権と関わる問題であり、安易に制限してはならないという考えに説得力があるのですが、商標の世界では必ずしも同じではないように思います。

例えば今回のフランク三浦の腕時計、あれを販売することを「表現の自由」の観点から認める必要があるかというと、そんなことはないと思います。「フランク三浦」は、ギャグ目的だとはいえ、「フランク・ミュラー」という商標の周知・著名性を利用したブランドであることは明らかです。仮に世の中に「フランク・ミュラー」が存在しなかったら、「フランク三浦」の時計は同じような売上げや利益を出すことはできなかったでしょう。

一方でこのような利用のされ方をしてもフランク・ミュラー側にはほとんどメリットはないでしょうから、端的に、フランク三浦はフランク・ミュラーの周知・著名性にただ乗りして利益を得たといえます。これを日本という国で社会的に認めていいのかという議論がまずあるわけです。フランク三浦が単なるフランク・ミュラーの模倣品ではなく、独自の製品を開発・製造・販売しているとしても、それを凌駕する利益を「フランク・ミュラー」の周知・著名性から得ているならば、この点を日本国民としてどう考えますかという問題なわけです。

念の為ですが、日本の知的財産法の世界では、他人の先行投資などに「ただ乗り」すること自体を禁止してはいません。すなわち、ただ乗りしている=違法とはなりません。この点は重要なのですが、意外と勘違いされています。

例えば特許の世界では、出願された技術内容は、一定期間経過後に特許庁により強制的に開示されます。その情報を利用して、他社は新たな技術を開発するわけです(技術の累積的進歩)。これも他人の先行投資へのただ乗りといえますが、特許法ではこれを禁止するどころか、これこそが特許法の真の目的です。ただ乗りだからダメとはいえない好例でしょう。

商標や標章の世界では特許のような累積的な進歩という概念には馴染まないのですが、それでもただ乗りしたら即アウトとはなっていません。商標法では、ただ乗りした上で、本家と出所の混同をきたす程度に類似していたらアウトということになっていますし、一見するとただ乗りそのものを禁止しているように見える不正競争防止法2条1項2号も、結局は他人の商品等表示を希釈化する程度に類似していたらダメだといっています。このように、ただ乗りした上で、各法律(条文)が目的とする違法性を備えるものが禁止されるというのが日本の法律の枠組みなので、ただ乗りかどうかだけを議論しても不十分だということには注意が必要です。

ということで、フランク・ミュラーの周知・著名性に、言い換えればフランク・ミュラーのこれまでの巨額の投資にただ乗りをして、自らは利益を得る一方、フランク・ミュラーのブランド価値を下げてしまうかもしれないフランク三浦時計の存在を、日本国民はどう位置づけますかということを考えなければいけないわけです。(もっともこの点は(すなわちフランク・ミュラー商標の侵害をするかについては)争われていないので、議論しづらいかもしれませんが。)

今回は、このような問題に加えて、『フランク三浦』の商標登録を許すかどうかが争われたわけです。仮にフランク三浦時計の販売を許すとしても、商標登録はやりすぎだという意見もあるでしょう。『フランク三浦』が商標登録されるということは、フランク三浦は自らが他人の商標の模倣でありながら、自らの模倣を排除する権利を持つということを意味します(※もっともフランク三浦は模倣であっても本家とは商標非類似と判断されているので、類似商標の使用を排除することを同列に語ることはできないでしょうが)。個人的に問題だと思うのは、『フランク三浦』が商標登録されることによって、フランク・ミュラー側は『フランク・ミュラー』商標と類似する商標の一部の使用が制限される可能性がある点です。すなわち、両商標の類似範囲の重複部分(禁止権同士がぶつかる範囲)は双方とも使用できないわけですから、フランク・ミュラー側が使用できる商標の範囲がその分狭まったといえます。

例えば、『フランクミウラ』なるカタカナの商標は両方に類似する可能性が高く、これまでフランク・ミュラー側は(積極的にこれを独占使用できはしないけれども)他人を排除することで自らが実質的にこれを独占的に使用できたわけですが、『フランク三浦』商標登録のおかげで今後はこれを使用できません。これは微妙な例ですが、より現実的な問題(例えば『フランクミウラー』の場合はどうか、など)が生じる可能性は否定できません。使いたければ最初から商標登録しておけばいいと言われたらそれまでなのですが、フランク・ミュラー側にそのような負担を強いるだけの合理性が『フランク三浦』の商標登録にあるのかは、検討されてもいいでしょう。

このように、パロディについては、

  • そもそも著作権の世界で問題になった(表現の自由の観点から認めるべきという価値があった)
  • その対象が徐々に広がっていき、表現の自由とは無関係の、商売(商標)の世界にまでパロディの問題が生じるようになった
  • パロディ商品の販売が商標法上許されるかという議論に加え、ついにはパロディ商標を登録して他者の排除を認めていいかが問題となるようになった

という流れで書いたのですが、伝わっているでしょうか。

本来ならば、パロディ商品の販売は許してもいいが、その商標登録までは認められない、という価値観があってもいいように思いますが、おそらく実務上(あるいは現行法制度上)、侵害の場面と登録の場面の商標類否判断の基準の差は、そこまで大きくないと思われます。特に今回フランク三浦判決で示されたような「取引の実情」の参酌がされるのであれば、両者の間の差はほとんどないと言っていいかもしれません。

審査段階における「取引の実情」の参酌については、近年特に広く解釈されているようで、批判的な意見もあるようです。本件のように需要者層が異なるという要素は他の事例でも比較的頻繁に採用されており、ある意味「取引の実情」の定番の要素ともいえるものですが、将来販売される商品によって需要者層の重複が生じた際には、無効理由の根拠となるのか、その部分は権利範囲から外れると侵害訴訟で判断されるのか、あるいは一切影響しないのか、よくわかりません。すなわち、将来需要者層が重複した場合、『フランク三浦』は『フランク・ミュラー』の商標権侵害となるのか、その際に『フランク三浦』商標登録の存在はどうなるのか、不明です。

このようにいろいろ微妙な点を含んだ本件ですが、数少ない「パロディ×商標登録」の事例に重要な1つとして加わることは間違いないでしょう。朝日新聞で引用してもらった「フランク三浦は本気でパロディーをした」という表現はいくらかエキセントリックに聞こえるかもしれませんが、結局は独自の商品として需要者を開拓していったことで独自のブランドとして評価された、という意味です。本件で単なる模倣品とパロディとの差異を見出すとすれば、ここが最も重要なのではないでしょうか。

余談ですが、朝日新聞も読売新聞も、 Parody は「パロディー」なんですよね。私の感覚では「パロディ」なんですが、おそらく前者が正しいのでしょう。

これは表記ゆれと呼ばれる問題で、翻訳などをしてるとかなり頻繁に直面します。私は基本的には伸ばさないようにしていて、「スター」や「タブー」など明らかにおかしくなる場合のみ伸ばすようにしています。結局は好みの問題なのでしょうが、伸ばすかどうかだけで商標の類否判断に影響する事例が少なからずあることを考えると、少なくともブランド名ではこのあたり気を配った方がいいのでしょう。

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2015年を振り返って

先程、食事をしながら池上彰さんの番組を見ていたら、「パクリ」の特集をしていました。

その中で、次の行為はパクリの観点から問題になるか?というコーナーがあり、

葛飾北斎の絵を大胆にアレンジして、商業的なイベントのパンフレットに使用する

という問題の答えが「問題にならない」でした。しかしこれは正しくないでしょう。

問題にならないとする根拠は、「葛飾北斎の死後50年経過しているので、既に著作権が切れているのだから、いまさら何をしようが構わない」というものでした。しかしこれはかなり雑な説明です。

たしかに、絵画(美術)の著作物についての著作権は、著作者の死後50年で保護期間が満了します(著51条2項)。しかしこれはあくまでも著作財産権についての説明であり、著作者人格権については別途考慮する必要があります。

著作者人格権のひとつである同一性保持権では、著作物の改変に一定の制限を課しています。具体的には、著作者の意に反する改変をしてはいけないことになっています(著20条)。

同一性保持権(著作者人格権)は一身専属的であり、譲渡(相続を含む)することはできません(著59条)。すなわち、著作者が死亡した時点で、同一性保持権は満了します。しかし、著作者の死後も、著作者が生きていたら著作者人格権の侵害となる行為は禁止されます(著60条)。従って、葛飾北斎の絵画を勝手に改変すると、著作者人格権を侵害する行為として問題になる可能性があります。

では実際にはどのように問題になるのでしょうか。

差し止めや損害賠償などの民事的な請求は、遺族しかできません(著116条)。遺族とは、死亡した著作者の配偶者父母祖父母又は兄弟姉妹をいうので、これらの者がすべて(多くの場合、最終的に孫)が死亡してしまったらもはや民事的な請求はできません。

一方で、刑事的な観点からは、事情が異なります。著作者の死後に、著作者が生きていたら著作者人格権の侵害となる行為(著60条)を行うと、500万円以下の罰金が課せられます(著120条)。しかも、これは遺族の告訴がなくても立件できます(非親告罪)(著123条反対解釈)。著60条には期間の定めがないので、結局、葛飾北斎の死後であっても、葛飾北斎が生きていたら意に反するであろう改変は未来永劫禁止され、これを勝手に行うと、検察により刑事訴訟を提起され、500万円以下の罰金が課せられてしまう可能性があります

番組では、葛飾北斎の絵を「そのまま利用して」パンフレットに使用する、という事例にすべきだったでしょう。

※もっとも、著作権法が存在しなかった江戸時代の絵画までが上記解釈になるかは、知りません。そもそも著作権(財産権・人格権ともに)が発生していないでしょうから、保護されることもないように思います。その場合は番組の解説のロジックもおかしいことになります。

さて、弊所は昨日(28日)で2015年の全業務を終了させていただきました。年明けは4日から業務開始いたします。なお、年末年始もメール・FAX・郵便でのお問い合わせは受け付けております。4日より順次対応いたします。

無事に年末を迎えられるのも、ひとえにクライアント様及び各方面のご関係者の皆様のおかげです。謹んでお礼申し上げます。

2015年を振り返って思うのは、今年は様々な「挑戦」の年でした。特に今年は、いろいろなご縁があり、個人や中小企業の方のご相談を受ける機会がかなり増えました。弊所はこれまで外国の大企業が主なクライアントであったため、初めて商標出願を行うようなお客様の出願を行うことにはあまり慣れておらず、ご迷惑をお掛けしてしまった部分もあったかもしれません。お詫び申し上げます。

おかげさまで、1年間の業務を通じて、そのような案件についても所内システムを構築することができ、いまではご相談〜出願〜登録まで、スムーズに運用できるようになりました。

また、ここ数年力を入れていた、模倣品対策事業も少しずつ形になってきました。特にECにおける模倣品対策では一定の実績を残すことができた点は、素直に自己評価したいと思います。来年はこの経験とノウハウを基に、より多くの権利者様のお手伝いをさせていただきたいと考えています。

来年も、もっと様々なことに挑戦し、皆様の貴重な資産である知的財産を適切に保護するお手伝いをして参る所存です。
より身近な特許事務所・弁理士となれるよう努力と工夫を重ねていくことをお約束して、2015年のご挨拶に代えさせていただきます。