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スキャン代行の著作権侵害訴訟、上告棄却で違法確定

タブレット端末や電子書籍リーダーの普及に伴い、従来の書籍(いわゆる紙の本)を裁断し、スキャンを代行するサービスが登場しました。ところが、そうしたサービスに対して、作家(著作権者)が著作権侵害(複製権侵害)を根拠にサービスの停止を求める訴訟を提起していた問題について、先日17日に最高裁が上告棄却の決定をしました。これによりスキャン代行サービスを違法とした知財高裁の判決が確定しました。

1) 原告(被上告人)代理人の福井健策弁護士は、自炊とは紙の書籍を自分でスキャンして電子データ化することをいうので、「自炊代行」は理論上あり得ず、表現として不正確なので、「スキャン代行」という言葉を用いる、という趣旨の発言をされており、本稿でもそれに従います。

本をスキャンして電子データ化する行為は、著作権法上の複製に該当します(著2条1項15号、同21条)。ただし、複製に該当する場合でも、それを個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内で使用(いわゆる個人使用)するときは、前記規定にかかわらず、複製できることになっています(著30条1項)。

今回問題とされたサービスは、本の所有者が本をスキャン代行業者に送って、代行業者が所有者の代わりに本を裁断・スキャンして、作成した電子データを顧客に送るというものです。スキャン後の書籍は送り返さずに破棄していたようです。こうしてスキャンする行為は個人使用には該当しないとして、著30条1項の要件を満たさず、ゆえに複製権侵害をするとして争われていました。

たしかに、条文の文言をみると、実際に複製(スキャン)しているのは代行業者であり、そしてその目的は「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」ではないことも明らかでしょうから、形式的に複製権を侵害するといえます。

しかし被告側は、(1)スキャン後には書籍を処分しているのでスキャン前後で著作物の数は変わっていないこと、(2)代行業者は本の所有者の補助者または手足に過ぎないこと、を理由に、そもそも書籍を複製していないか、仮に複製していても実質的な複製主体ではない、という趣旨の主張を行い、そもそも複製権侵害がないという主張をしていました。

また、上記(2)の主張をさらに著30条1項の規定と組み合わせて、複製の実質的な主体は本の所有者であるのだから、本件複製行為は私的使用の範囲であるという主張もしていました。

今回最高裁は上告を棄却したので、知財高裁の判断に特に新しい判断が加えられたわけではありません。知財高裁の判決言渡から約半年が経過しており、その間に多くの評釈が世に出されているので、本稿では法的な解釈には軽く触れる程度で省略させていただきます。

結論からいうと、知財高裁はほぼ形式論に従って複製権侵害の判断をしました。すなわち、(1)実際にスキャンを行っているのはスキャン代行業者なのだから、彼らが複製主体である。(2)そして、彼らはそれを営利目的の事業として行っているのだから、私的使用目的の範囲を超えて複製しているので、著30条1項の適用もない。ゆえに著作権侵害であると結論づけました。著作権法の条文の文言そのままであり、その意味で説得力のある判断です。

一方で、知財高裁のこのような判断に対しては、否定的な見解も多くあったようです。知財専門家の間ではむしろ、本件行為を複製権侵害とすべきではないとするものが多かったように思います。その理由は論者により様々なので一言ではまとめられませんが、本事案が過去の著作権訴訟に比べて特殊な事情を抱えていたことがひとつの原因だと考えられます。

これまで著作権の世界では、各ユーザーの行為が著作権侵害をすることは明らかだが、それに加えて、ユーザーの著作権侵害を助長するサービスを提供する者の著作権侵害も問えるか、という観点で問題が論じられることがありました。その中で、前述の「手足論」や「カラオケ法理」などの法理論が発展してきたという経緯があります2)

2) 例えば、著作権料を支払わないカラオケ機器を設置している店があったとします。著作権法上は、その店で歌った人が著作権侵害をすることになります(著22条)。しかし著作権者は、違法に歌った人をいちいち訴えていたらキリがありませんし、現実的ではありません。そこで、そのような違法行為を前提にしたサービスを提供したお店が著作権侵害をするという解釈はできないか、という文脈で発展してきたのがカラオケ法理や手足論です。

本件でも、代行業者を止めることでスキャン自体を止めたいという事情があったものと思われますが、実は本件は、本の所有者が自らスキャンを行った場合は、著30条1項の適用により、著作権を侵害しません。同じ本を所有者自らがスキャンした場合は著作権侵害とならないのに、代行業者を通じてスキャンすると(代行業者が)著作権侵害するという判断結果には違和感があるように思います。しかも、代行業者が得る手数料は、純粋にサービスの手数料であって、本来著作権者が得るべき利益を横取りしているわけでもありません(※実際に、本件訴訟ではスキャンによる損害賠償は請求されていません)。代行業者によるスキャンそのものに何らかの違法性を見出さないといけませんが、何かあるのでしょうか。

この点については、(1)スキャンデータ(ほとんどの場合PDF)にはDRM(コピーガード)がなく、一度電子化されてしまうとインターネットを介して無制限に拡散してしまうこと、(2)スキャン後に裁断された書籍がネットオークションなどで販売されるとそのぶん書籍の販売機会が奪われること、などが指摘されています。なるほど、これらは所有者が自らスキャンした場合でも変わらないとはいえ、代行業者を利用することで電子化される書籍の数や種類が大きく増えるという点には着目すべきかもしれません。著30条1項の趣旨は、個人が自分や家族など極めて限定された範囲内で使用する場合は、著作権者に与える不利益が小さい一方、そのような複製にまで逐一許諾を求めないといけないとすると権利者・利用者双方にとって負担が大きいため、例外的に自由な複製を認めようというものなので、代行業者が業務用機器などを用いて大量に複製するものまでは対象としないとする立場には一定の説得力があるように思われます(※この点は知財高裁でも指摘されています)。

ただこの論法だと、私的使用目的だが大量に複製する場合の違法性が問えるのかとか、そのような機器を個人に販売する業者は著作権侵害の責任を負うのか、という疑問もやはり出てきます(※現実にはいずれも否定されるでしょう)。本来は「私的使用目的かどうか」という基準がそもそも上述の矛盾を抱えているように思われますし、そのような矛盾の中で敢えて「私的使用目的」という基準が設けられていることを考えると、知財高裁が行ったように形式的に複製主体で判断するのもやむなしかという気もしてきます。あるいは個別の事例ごとに複製の違法性について柔軟な判断がなされればいいのでしょうが、現行の著作権法の枠組みでは難しいでしょう。

もしこれがスキャン代行(自炊代行)のみの問題ならば、それほど大きな問題ではないかもしれません。そもそもスキャン代行業の市場はあまり大きくないでしょうし、ほとんどの代行業者は他の事業の片手間にスキャン代行も行っていると思われるので、スキャン代行ができなくなったとしても、それ自体が社会問題となることはないのかもしれません。また、作家(著作権者)の中でもスキャン代行を排除したい人と受認したい人がいるでしょうから、とりあえず本件訴訟の原告による書籍のみをスキャンの対象から外して、今後も警告書が届くなどしたらその作家のスキャンをやめれば、スキャン代行自体は継続できるでしょう。

問題は、本件判決の射程距離が、書籍のスキャン以外の電子化代行サービスにまで及ぶのかという点にあると思われます。既にあらゆるものを電子データで保存する時代になりました。そうしたものの電子データ化において、どこまで著作権の問題に向き合わないといけないのかは、まさにいま日本の著作権法が直面している課題といえるでしょう。現行著作権法はデジタル時代に対応できていないとよく言われます。DVDのリッピングや、4K番組の録画制限などの問題も、その一例でしょう。本件判決の基準では、他人の著作物を複製する際は、あくまでも形式的に「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」で行わないといけないと言っているように読めます。書籍にかぎらず、電子データ化を代行するサービスはすべて複製権を侵害すると言わんばかりの内容です。そうだとすると、本判決の意義はかなり大きいと思われます。

結局のところ、電子書籍の世界はまだ成長途中なのだと思います。一見すると、紙の本なのか電子データの本なのかという違いに過ぎないと思えますが、我々が紙の本を買うことと電子書籍を買うことには大きな差があります。紙の本を買うということは、その本(物理的な意味での本)の所有権を手に入れることと同義です。一方で、電子書籍を買っても、通常はその電子データの使用許諾をもらうに過ぎません。例えばAmazonのKindle本を購入したとしても、そこで手に入れられるのは、その電子データへアクセスする権利だけです。仮に将来Amazonが電子書籍事業を廃止したら、ユーザーの手元に電子データは残りません(それ以降はその本を読むことができなくなります)。そういう意味で、紙の本を自分で電子データ化するという需要は一定程度存在し続けるでしょう。逆に作者側は、電子データの流通をコントロールできないような態様での電子書籍は排除したいと考えるはずです。本件訴訟は、浅田次郎、大沢在昌、永井豪、林真理子、東野圭吾、弘兼憲史、武論尊といった日本を代表する大作家・漫画家が原告となっています。当然裏では出版社が主体となって行動したことが容易に推察されます。紙で本を出している出版社が、DRMなしの書籍の電子データ化を防ごうとするのは当然ともいえます3)。今回の問題はそのような利害対立の中で生じたものです。

3) 個人的な感覚として、そもそも未だ電子書籍そのものに消極的な出版社が多いように思います。

スキャン代行が事業としてできないとなると、スキャン機器をレンタルする事業が出てくるかもしれません(既にあるかもしれません)。裁断機とスキャナを一定期間貸し出すサービスならば、複製を行うのはあくまでも本の所有者なので、どれだけ大量の本をスキャンしても著30条1項の範疇に落ちてくるでしょう(少なくとも知財高裁の判決からはそう読むしかありません)。こうした事業が盛んになり、自炊がより容易に行えるようになると、「紙の本を買う」→「スキャンする」→「裁断済みの本をヤフオクで売る」というサイクルが当然になるかもしれません。漫画などはそもそも市販の電子書籍もスキャンデータなので、紙の本を買って自炊する方に優位性がありそうです。そうなると、本はヤフオクで裁断済みのものを買えばよくなり、スキャン後にはまたその本をヤフオクで売ればいいわけですから、電子書籍の入手コストが限りなく安くなる可能性があります。もしそのような時代になったら、出版社はスキャン機器のレンタルや、裁断済みの本を販売することの違法性を問おうとするのでしょうか。そのような裁判が起こされたら是非結論を見てみたいものです。

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東京五輪エンブレム問題の続報

先日「東京五輪エンブレム問題について考える」という記事を書いたところ、予想以上の反響がありました。

その後ロゴの創作者である佐野研二郎さんが会見を開かれたので、その内容を踏まえて続編を書いてみます。

会見の様子(動画)

さすがデザインの専門家、説得力があります。細かい説明は動画や記事を参照いただくとして、「要素は同じものがあるが、デザインに対する考え方が違うものでまったく似てない」という意見には着目する価値があります。

実はこの「一部の要素は同じだが、コンセプトが異なる」点については、ベルギーのロゴを作ったドビさんも同じ考えを持っているようです。現段階でソースがありませんが、昨日のニュースでそのような発言をしていました。類似する内容の記事がありました。

ドビさんの主張は、コンセプトは異なるが、自分のロゴには著作権がある、佐野さんのロゴは自分のロゴと類似するのだから、著作権侵害となる、という趣旨だと思われます。しかしこれは、少なくとも日本の著作権法の観点からはあまり説得力がありません。

著作権

前回の記事でも書きましたが、佐野さんのロゴを使用するとドビさんのロゴの著作権を侵害するといえるには、

  1. 佐野さんがドビさんのロゴを知った上でそれを利用してロゴを作成し(依拠性)、
  2. 結果として佐野さんのロゴがドビさんのロゴに類似する(=佐野さんのロゴがドビさんのロゴを変形した新しい著作物である)(類似性)、

といえることが必要です。

依拠性

つまり、そもそも佐野さんがドビさんのロゴを知らなかったのであれば、著作権侵害の前提(正確には要件のひとつ)を欠くことになり、著作権侵害をすることはありません。これはワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー事件(判昭和53 年9月7日)という裁判で最高裁により判断が示されたもので、それ以降これに基いて訴訟実務が行われています。

そして、この依拠性は、著作権者側、すなわちドビさんが立証する必要があるとされています。

佐野さんはベルギーには行ったことがなく、これまでにドビさんのロゴを見たことはないと言っています。それが正しければ、上述の通り著作権侵害とはならないのですが、問題はそう単純ではありません。

現実問題として、ドビさんが、「佐野さんがドビさんのロゴを知らなかったこと」を証明するのは極めて困難です。これは常識でわかると思います。他人が何を知っているか(知らないか)など、それこそわかりません。

そこで訴訟実務では、著作物が類似している(類似性を満たす)場合は、依拠性ありと推認して、立証責任を被告に転嫁することが多いようです。つまり、佐野さんが「創作時にドビさんのロゴを知らなかった」ことを証明することになります。

ところが、一般にはこれも困難です。いくら自分のこととはいえ、佐野さんは自分がロゴを知らなかったことを証明することはそう簡単にはできません。知っていた場合でさえ証拠が残っていないケースも多いでしょうから、知らなかった場合の証明はその何倍も大変でしょう。

そこで訴訟実務では、佐野さんが創作時(創作前)に先行するロゴをどれだけ調査したかを証拠として提出して、十分な調査をしたかを見ることにしています。もし訴訟になれば、佐野さんは「こういう範囲の資料を参照した(がその中にドビさんのものはなかった)」ことを証明することになると思われます。

なお、それならJOCが事前に商標調査をしたと言っているんだから、その調査資料が使えるはずという指摘があるようですが、おそらくそれは理論的に不可能です。

商標調査は通常調査対象となる商標が存在する前提で行います。つまりロゴが完成してから調査したのでしょう。

一方で著作権侵害における依拠性の調査は、創作前に他人の著作物をどれだけ調べたか(結果として知っていたか)を証明するためのものです。なので、創作後にした調査は依拠性の証明においては価値がないと思われます。

無方式主義の限界

したがって、ドビさんが主張するように、「どのようにしてロゴを思いつかたか(=ロゴのコンセプト)は関係なく、結果として似ているから著作権侵害だ」ということにはなりません。日本の著作権法では、まずどのようにしてロゴを思いついたかが重要なのです。ドビさんのロゴを知って真似したことが必要で、その上でロゴが似ている場合に初めて著作権侵害となります。

一方で、特許権や商標権などの産業財産権では、それらの権利の存在を知っていたかどうかは関係なく、結果として権利範囲の内容を実施や使用すれば権利侵害となります。これは、産業財産権が登録及び公開という過程を経るのに対して、著作権では一切の登録、特に公開がないことに起因しています。

商標権などの公開があるものは、商売をする以上公開情報を調査して権利侵害しないように注意する義務があるという価値観に基づいています。なので結果として類似してしまったものでも、権利の調査をしなかったことに落ち度があるので法的な責任を追うことになります。

しかし著作権は公開されないため、専門家であっても他人の権利を事前に調査することは容易でないことが多いです。そこで、他人の著作権の内容を知って敢えて模倣した場合に限って権利侵害するとしているのです。著作権者には厳しいと感じられるかもしれませが、そうでないといつ他人の著作権を侵害してしまうかわからず、怖くて誰も表現できなくなってしまいます。

類似性

前回の記事でも書いた通り、そもそも佐野さんのロゴはドビさんのロゴを翻案したものではないと思われます。

ドビさんのロゴは、ざっくりいうと中心の長方形と、左上及び右下の三角形様の図形、お世び外縁を定める円から構成されます。どの構成要素も基本的な図形ですが、これらの組み合わせ及び配置に表現上の特徴があるため、著作物足りえるものと思われます。

佐野さんのロゴは、これらの構成要素のうち、中心の長方形と、左上及び右下の三角形様の図形の組み合わせ及び配置において共通するか、少なくとも類似します。逆にいうと、それら以外のすべての構成要素はすべて佐野さんの独自の表現です。佐野さんのロゴには、右肩に赤い円という新規要素が追加されており、逆に外側の円は採用されていません。

ドビさんのロゴのように基本的な図形のみで構成される著作物は、それらの組み合わせや配置、配色などの大部分が共通するときに限り翻案となります。つまり、構成要素がありふれた図形の場合は、権利範囲は非常に狭くなるわけです。

ドビさんの主張は、下記の構造を含むあらゆる図形は、その用途に限らず常にドビさんの著作権を侵害すると言っているようなものですが、それは認められないでしょう。

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例えば小説などの文章の場合は、そのうちの一部分(例えば一章)が他人の著作物と類似していれば、その部分のみを切り取って著作権侵害を議論できます。

しかし図形の場合は、その一部の構成要素のみを抽出して著作権侵害を議論することは、一般にはナンセンスです。図形は全体でひとつの図形だからです。

佐野さんのロゴは、ドビさんのロゴと構成要素の一部が共通しますが、新たな構造が追加されるなど、全体としてドビさんのロゴとは類似しない別の表現と評価できるため、ドビさんの著作権を侵害しないと考えるべきと思われます。

なお、佐野さんの会見では、三角形様の図形が長方形に接しているかいないかという差異にも触れられているようです。たしかにこれにより両者の印象は異なるものになっているように思われます。また、ドビさんは書体が同じであると主張していましたが、佐野さんの説明では異なる書体のようです。そもそも共通する文字がTの一文字しかないので書体が類否判断に与える影響はそれほど大きくないと思いますが。依拠性の議論に影響する部分なので、この事実は意外と重要かもしれません。

意匠権

ところで前回記事に対して「五輪+エンブレム+意匠」というキーワードからの流入がいくつかあったのですが、これは問題となる意匠権の存在が指摘されていない以上、議論する価値はないと思われます。

そもそもロゴと意匠はあまり相性がよくありません。たしかに意匠法上の物品の形態には商品の模様も含まれるので、ロゴが意匠登録できないわけではありません。ただし意匠とはある物品の美的な外観ですので、そのロゴが物品の外観と密接不可分な特殊なケースに限って意匠登録する価値があるといえます。例えばロゴの形そのものをキーホルダーにする場合などは、意匠登録する意義があるかもしれません。物品の形状は複数選択できるがそれにロゴを付すような場合は、意匠権でなく商標権での保護を模索することになるでしょう。

プロダクトバイプロセスクレームの権利範囲

プロダクトバイプロセスクレームの権利範囲の解釈について、遂に最高裁の判断がなされました。

プロダクトバイプロセスクレームとは、特許請求の範囲において、ある「物(プロダクト)」を特定するのにその物の製造方法(プロセス)を用いて記載されている発明をいいます。

例えば化学の分野では、その物質がどのような構造かよくわからない場合もあります。しかしどういう方法でその物質を作ればいいかはわかっていて、その物質の有用性も判明しているときは、その製造方法を記載することで物質を特定することが認められています。例えばAという方法で製造された物質Xのような記載方法が、化学や医薬の分野では認められているのです。

ただこの場合、その発明の権利範囲がどう解釈されるかが問題になります。つまり、Aという方法で製造された物質Xという記載で特定される物質Xについての特許発明がある場合に、Bという方法で製造された物質Xを製造する者があった場合に、これは特許権侵害となるのか否かという問題が生じるわけです。

この点については、下級審や学説で争いがありましたが、本日、最高裁により、特許権侵害となるという判断がなされました。

つまり、プロダクトバイプロセスクレームにおいて、記載されている製造方法(プロセス)は、単にその物質(プロダクト)を特定するための記載にすぎないという判断がなされたのです。

これにより、製造方法で特定するしかない物質にも、その製造方法に限定されない広い範囲まで権利が認められることになりました。製薬会社などにとっては、特許権取得に際しては、医薬の具体的構造を明らかにしなくてもその物自体が保護されるので、良いニュースとなるでしょう。一方で、他社に先行されている分野では、特許の内容を回避するために他の製造方法を探すことができなくなる可能性があり、その医薬自体が開発できなくなるリスクもあります。

というのが今日のニュースに関する表面的なお話です。ただ本当は、プロダクトバイプロセスクレームの解釈はまず審査段階か侵害段階かで判断基準が分かれて、さらにそれぞれにおいて、製造方法によらない(物同一説)か製造方法により限定される(製法限定説)かを分けて検討する必要があります。

審査段階では物同一説を採用することで事実上統一されていました(すなわちBという方法で製造された物質XはAという方法で製造された物質Xに対して新規性がない)が、侵害段階では判断が割れていました。なぜ割れていたかというと、侵害段階ではプロダクトバイプロセスをさらに真正プロダクトバイプロセス(物の特定を直接的にその構造又は特性によることが出願時において不可能又は困難であるとの事情が存在するため、製造方法によりこれを行っている場合)と不真正プロダクトバイプロセスクレーム(前記以外の場合)にさらに分けて判断されるからです。

本件は、高裁段階では不真正プロダクトバイプロセスクレームにあたると認定され、製法限定説が採用されていたものが、最高裁では一転して物同一説が採用されたものです。しかし、どのような前提のもとにこのような判断に至ったのか、いかんせん現段階でソースがニュース記事しかないので、わかりません。なので本判決の射程というか、先例的価値がどこまであるのか、ちょっとまだわかりません。記事からは「プロダクトバイプロセスクレームの権利範囲は特定される「物」の発明に常に及ぶ」というニュアンスを感じ取れますが、現段階でそう言い切るのは危険です。このあたりはいずれ情報が出揃ってから改めて解説します。

余談ですが、この判決を受けて、機械などの分野でもプロダクトバイプロセスクレーム風の請求項を書く事例が出てきそうで怖いです。公報を眺めているとたまに機械系でマーカッシュクレームを見かけますが、本来は化学系のクレーム記載方法ですよね。トレースしていませんが、ああいうのはあのまま特許になるんでしょうか・・・。