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『フランク三浦』商標についての記事が読売新聞&朝日新聞に掲載されました

『フランク三浦』問題について、5月17日に、私の記事が読売新聞オンライン版・深読みチャンネル内に掲載されましたのでご紹介いたします。

また、朝日新聞にも同問題について解説が掲載されました。こちらはコメントを提供したのみですが、同内容が新聞紙(夕刊)にも掲載されました。

基本的には記事に書いてあるとおりなのですが、多少解説を加えておきます。

事の発端は、『フランク三浦』というパロディ商品があり、これを製造・販売する会社(株式会社ディンクス)がこの商標を登録したところ、本家フランク・ミュラーが怒って無効審判を請求したことにあります。特許庁は商標登録を無効とする審決を出しましたが、ディンクス側はこれを不服として出訴(知財高裁に審決取消訴訟を提起)。知財高裁は、特許庁の判断を覆し、商標登録を維持する旨の判決を出しました。

本件の問題意識は、このようなパロディ商標の登録を認めていいのかというところにあります。何件か取材や問い合わせをいただいたのですが、そのほとんどが「パロディ商品を販売できる基準は何か」という内容でした。しかし今回は、そんなことは争われていませんし、判断もされていません。まずはここを明確にすることが重要です。

そこでパロディについて、知財法の観点から検討したわけですが、実は「パロディ」という概念にはあまりに多くのものが詰め込まれていて、まずはここを明確にしないと議論が錯綜します。記事執筆にあたり調べものをしている中で、本当に「パロディ」という側面から知財法上の問題を検討することが正しいのかという疑問すら持ちました。

そもそもパロディとは、著作権の世界で問題となるものです。例えば他人の絵画や写真を利用して、それに風刺的な意味を込めて新たな著作物を創作する行為などが問題になります。つい最近目にした例では、東京オリンピック招致にまつわる不正送金問題を揶揄する以下の画像などがこれに当たるでしょう(オリンピックエンブレムを1万円札で模しています)。

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なお、本画像は実際のタイム誌の表紙ではなく、それを模したコラージュ画像であるようです。そうすると、エンブレムの著作権についてはパロディが許されるとしても、タイム誌の表紙デザインの著作権については、別に議論する必要があるかもしれません。

このような創作行為は、著作権法上の翻案(場合によっては複製)に該当することがあるでしょうし、同一性保持権を侵害する可能性もあります。しかし同時に、表現の自由の観点から、これをできるだけ認めるべきともいえるわけです。

この点については、著作権法では、他人の著作物を利用(※この文脈では必ずしも著作権法上の「利用」や「使用」を指すわけではありません)して新しい著作物を創作した場合は、二次的著作物として別個に保護されることになっています。ただし、元の著作物の著作権を侵害することになるので、原則として権利者の許諾を得なさいというバランスの取り方をしています。

これに加えて、上記のようなパロディには、社会的・政治的な問題に対する思想や主張が表されている場合があります。このようなものには、特に表現の自由を厳格に守るべきとして、その制限により慎重な判断がなされるべきであり、この観点からパロディが問題になるといえます。すなわち、一般的な二次的著作物の中で、社会的・政治的な風刺を含むパロディについては、許諾がなくても、より許されやすい場合があるかもしれないのです。

このような観点からパロディの可否が議論されてきたわけですが、時代の変遷とともにその対象が広がっていき、社会的・政治的な要素を含まないものでもパロディなら許されるべきではないかという議論が、欧米を中心になされてきました(そしてそれを認めるべきという大きな流れがあったように思います)。

日本の著作権法では、パロディについての特別の規定はありませんし、判例・裁判例を見てもパロディだからどうという判断はされづらいようです。つまりパロディだからといって特別扱いせず、通常の著作権侵害事件と同様の基準で判断すればいいとされているように思われます。社会的・政治的な表現はパロディ以外のものでもなされることを考えると、それも妥当かなという気はします。

また日本特有の問題として、二次創作(いわゆる同人誌)という文化もあります。これも広い意味でパロディに含められますが、個人的には、パロディだから許されるとか、そういう議論には馴染まないように思います。主にファン活動の一環としてなされるものでしょうから、ファンの間、及び著作(権)者や出版社を含めた関係者の間の問題として考えればよいように思います。ただしクールジャパンのように国家戦略としてこれを推奨していくというならば、何らかの法的手当は必要かもしれません(この点についてはいずれ別稿で)。

このように、著作権の世界ではパロディは「表現の自由」という重要な人権と関わる問題であり、安易に制限してはならないという考えに説得力があるのですが、商標の世界では必ずしも同じではないように思います。

例えば今回のフランク三浦の腕時計、あれを販売することを「表現の自由」の観点から認める必要があるかというと、そんなことはないと思います。「フランク三浦」は、ギャグ目的だとはいえ、「フランク・ミュラー」という商標の周知・著名性を利用したブランドであることは明らかです。仮に世の中に「フランク・ミュラー」が存在しなかったら、「フランク三浦」の時計は同じような売上げや利益を出すことはできなかったでしょう。

一方でこのような利用のされ方をしてもフランク・ミュラー側にはほとんどメリットはないでしょうから、端的に、フランク三浦はフランク・ミュラーの周知・著名性にただ乗りして利益を得たといえます。これを日本という国で社会的に認めていいのかという議論がまずあるわけです。フランク三浦が単なるフランク・ミュラーの模倣品ではなく、独自の製品を開発・製造・販売しているとしても、それを凌駕する利益を「フランク・ミュラー」の周知・著名性から得ているならば、この点を日本国民としてどう考えますかという問題なわけです。

念の為ですが、日本の知的財産法の世界では、他人の先行投資などに「ただ乗り」すること自体を禁止してはいません。すなわち、ただ乗りしている=違法とはなりません。この点は重要なのですが、意外と勘違いされています。

例えば特許の世界では、出願された技術内容は、一定期間経過後に特許庁により強制的に開示されます。その情報を利用して、他社は新たな技術を開発するわけです(技術の累積的進歩)。これも他人の先行投資へのただ乗りといえますが、特許法ではこれを禁止するどころか、これこそが特許法の真の目的です。ただ乗りだからダメとはいえない好例でしょう。

商標や標章の世界では特許のような累積的な進歩という概念には馴染まないのですが、それでもただ乗りしたら即アウトとはなっていません。商標法では、ただ乗りした上で、本家と出所の混同をきたす程度に類似していたらアウトということになっていますし、一見するとただ乗りそのものを禁止しているように見える不正競争防止法2条1項2号も、結局は他人の商品等表示を希釈化する程度に類似していたらダメだといっています。このように、ただ乗りした上で、各法律(条文)が目的とする違法性を備えるものが禁止されるというのが日本の法律の枠組みなので、ただ乗りかどうかだけを議論しても不十分だということには注意が必要です。

ということで、フランク・ミュラーの周知・著名性に、言い換えればフランク・ミュラーのこれまでの巨額の投資にただ乗りをして、自らは利益を得る一方、フランク・ミュラーのブランド価値を下げてしまうかもしれないフランク三浦時計の存在を、日本国民はどう位置づけますかということを考えなければいけないわけです。(もっともこの点は(すなわちフランク・ミュラー商標の侵害をするかについては)争われていないので、議論しづらいかもしれませんが。)

今回は、このような問題に加えて、『フランク三浦』の商標登録を許すかどうかが争われたわけです。仮にフランク三浦時計の販売を許すとしても、商標登録はやりすぎだという意見もあるでしょう。『フランク三浦』が商標登録されるということは、フランク三浦は自らが他人の商標の模倣でありながら、自らの模倣を排除する権利を持つということを意味します(※もっともフランク三浦は模倣であっても本家とは商標非類似と判断されているので、類似商標の使用を排除することを同列に語ることはできないでしょうが)。個人的に問題だと思うのは、『フランク三浦』が商標登録されることによって、フランク・ミュラー側は『フランク・ミュラー』商標と類似する商標の一部の使用が制限される可能性がある点です。すなわち、両商標の類似範囲の重複部分(禁止権同士がぶつかる範囲)は双方とも使用できないわけですから、フランク・ミュラー側が使用できる商標の範囲がその分狭まったといえます。

例えば、『フランクミウラ』なるカタカナの商標は両方に類似する可能性が高く、これまでフランク・ミュラー側は(積極的にこれを独占使用できはしないけれども)他人を排除することで自らが実質的にこれを独占的に使用できたわけですが、『フランク三浦』商標登録のおかげで今後はこれを使用できません。これは微妙な例ですが、より現実的な問題(例えば『フランクミウラー』の場合はどうか、など)が生じる可能性は否定できません。使いたければ最初から商標登録しておけばいいと言われたらそれまでなのですが、フランク・ミュラー側にそのような負担を強いるだけの合理性が『フランク三浦』の商標登録にあるのかは、検討されてもいいでしょう。

このように、パロディについては、

  • そもそも著作権の世界で問題になった(表現の自由の観点から認めるべきという価値があった)
  • その対象が徐々に広がっていき、表現の自由とは無関係の、商売(商標)の世界にまでパロディの問題が生じるようになった
  • パロディ商品の販売が商標法上許されるかという議論に加え、ついにはパロディ商標を登録して他者の排除を認めていいかが問題となるようになった

という流れで書いたのですが、伝わっているでしょうか。

本来ならば、パロディ商品の販売は許してもいいが、その商標登録までは認められない、という価値観があってもいいように思いますが、おそらく実務上(あるいは現行法制度上)、侵害の場面と登録の場面の商標類否判断の基準の差は、そこまで大きくないと思われます。特に今回フランク三浦判決で示されたような「取引の実情」の参酌がされるのであれば、両者の間の差はほとんどないと言っていいかもしれません。

審査段階における「取引の実情」の参酌については、近年特に広く解釈されているようで、批判的な意見もあるようです。本件のように需要者層が異なるという要素は他の事例でも比較的頻繁に採用されており、ある意味「取引の実情」の定番の要素ともいえるものですが、将来販売される商品によって需要者層の重複が生じた際には、無効理由の根拠となるのか、その部分は権利範囲から外れると侵害訴訟で判断されるのか、あるいは一切影響しないのか、よくわかりません。すなわち、将来需要者層が重複した場合、『フランク三浦』は『フランク・ミュラー』の商標権侵害となるのか、その際に『フランク三浦』商標登録の存在はどうなるのか、不明です。

このようにいろいろ微妙な点を含んだ本件ですが、数少ない「パロディ×商標登録」の事例に重要な1つとして加わることは間違いないでしょう。朝日新聞で引用してもらった「フランク三浦は本気でパロディーをした」という表現はいくらかエキセントリックに聞こえるかもしれませんが、結局は独自の商品として需要者を開拓していったことで独自のブランドとして評価された、という意味です。本件で単なる模倣品とパロディとの差異を見出すとすれば、ここが最も重要なのではないでしょうか。

余談ですが、朝日新聞も読売新聞も、 Parody は「パロディー」なんですよね。私の感覚では「パロディ」なんですが、おそらく前者が正しいのでしょう。

これは表記ゆれと呼ばれる問題で、翻訳などをしてるとかなり頻繁に直面します。私は基本的には伸ばさないようにしていて、「スター」や「タブー」など明らかにおかしくなる場合のみ伸ばすようにしています。結局は好みの問題なのでしょうが、伸ばすかどうかだけで商標の類否判断に影響する事例が少なからずあることを考えると、少なくともブランド名ではこのあたり気を配った方がいいのでしょう。

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東京五輪エンブレム問題から考える日本人の模倣意識と企業のリスク管理

佐野研二郎氏による東京五輪エンブレムが使用中止となり、再公募となりました。

しかしどうにもしっくりこない方も多いと思います。私も以前から佐野氏のエンブレムは取下げるべきと考えていましたが、今回同様の判断に至った経緯や理由には感覚的に納得できない部分も多くあります。少し掘り下げて考えてみようと思います。

佐野エンブレムの法的な問題

当初は商標権などが騒がれましたが、どうやら商標登録自体が存在しないようなので、もはや著作権の議論のみをすれば十分だと思います。著作権については過去にこのブログでも取り上げており([1][2])、特に追加すべき情報はないのですが、簡単にまとめてみます。結論からいうと、佐野エンブレムは、他人の著作権侵害をしない可能性が高いと考えられます。

著作物性

今回問題となっているのはベルギーの劇場のロゴとして使われている、ベルギー人デザイナー、ドビさんによるものです。そもそもこのロゴに著作権が発生していなければ著作権法上の問題が生じるわけがありません。

この点については、弁護士の福井健策先生が著作物性なしとお考えだという話を聞きました(未検証です、不正確であれば訂正します)。もしその通りなら、そもそも著作権侵害が発生するわけもないので、ここで議論は終了です。ただ他の専門家には、著作物性ありと考える方が多いようです。私もそう考えています。そうすると、その著作権を侵害するかどうかを検証しないといけません。

余談ですが、先日SNSで、ある写真について「創作性が不十分な可能性があり、著作権が発生しているか怪しい」という趣旨の投稿をしたところ、「著作権は無方式で発生することを知らないのか」というトンチンカンなコメントをされました。上記説明したように、著作権侵害の議論をするには、まず対象となる創作物の著作物性(十分な創作性があり著作権が発生しているか)を議論する必要があります。写真ならば、その写真に撮影者の思想や感情が創作的に表現されているもののみに著作物性が認められ、著作権が発生するので、まずはこの点の確認をしなければなりません。写真であれば何でも著作権が発生しているわけではないというのは著作権法の基本です。

類似性

ドビさんの著作権を侵害するのは、佐野エンブレムがドビさんのロゴと(1)ほとんどまったく同じである(複製権侵害)か、(2)同じではないがかなり似ている(翻案権侵害)場合です。今回はほとんどまったく同じとは言えないでしょうから、両デザインがどれだけ似ているかが問題となります。

この点については、私の知っている限り、すべての専門家が「似ていない」と言っています。といっても積極的に調べたわけではないので、似ていると言っている方もいるかもしれません。これを判断できるのは裁判所だけですから、実際に裁判をしてみないことには誰にも断言できません。

ただ上述のとおり「似ていない」が趨勢だと思いますので、現段階では類似しない=翻案権を侵害しないと考えるのが無難だと思います。

依拠性

結局似ていないのですから、依拠性を検討するまでもなく佐野エンブレムはドビさんの著作権を侵害しません。

本ブログには「東京五輪+エンブレム+依拠性」の検索結果からの流入がかなりあるのですが、おそらくこの部分を理解していない方が多いのではないかと思います。「依拠性の証明ができればアウトといえる!」とお考えなのだと推測しますが、依拠性あり(=ドビさんのロゴをパクった)としても、両デザインが類似しない以上著作権侵害は成立しません。

なお、仮に依拠性の有無が最終的な争点になったとしても、依拠性ありと認められる可能性はあまり高くないと思われます。この点も以前に解説したとおりです。

結論

このように、佐野エンブレムの創作過程でドビさんのロゴを参考にしたか(要はパクったか)に関わらず、著作権法上の問題は生じないと思われます。つまり佐野エンブレムには法的な問題はないと考えられます。JOCもこの点は一貫して主張しており、使用中止会見でもやはり同趣旨の発言をしています。

日本人の模倣意識

「一般国民の理解」とはなにか

では法的な問題がないのに、なぜJOCは佐野エンブレムを取り下げたのでしょうか。

会見ではいくつか理由を挙げていますが、「展開例(写真)で転用があった」「佐野氏の希望があった」など、既に動き出しているエンブレムを取り下げる根拠としては弱すぎるものばかりです。結局、過去の模倣が次々と指摘されたため(なおそのほとんどは法的に問題ないものでしたが)、国民の佐野氏に対する不信感が募り、取り下げざるを得なくなったのでしょう。

ただ落ち着いて考えてみると、仮に佐野氏が過去に模倣をしていたとしても、その事実と五輪エンブレムの取り下げには直接の関係はないはずです。このあたりにJOCが「一般国民の理解を得られない懸念があった」と言う理由があるのでしょう。法的には問題なくても、過去に模倣をしていた人物が五輪エンブレムの作者であることは許せないという国民感情は無視できないということなのだと思います。

日本人にとっての「模倣」

いまの日本人は、模倣が大嫌いです。

以前ネットで中高生の議論を覗いた際の話です。「なぜ中国が嫌いなのか?」という問いに対して、最も多かった回答は、「パクるから」でした。日本人が生み出した技術やデザインは日本の財産であり、それが中国に盗まれると国益を損なうという感覚が、若い世代にも浸透しているようです。弁理士としてとても頼もしく感じます。わずか20年ほど昔までは、日本こそ模倣大国として、欧米先進国から軽蔑されていました。そうした模倣によってという部分もあるのですが、日本が経済成長を遂げ、逆に模倣される立場になった現在、このような価値観を持つ若者がいるということは、きっと将来の日本に役立つでしょう。

同様に、日本人は日本人自身による模倣にも非常に厳しい立場を貫きます。模倣は恥という価値観を、いまの日本人は共有しているように思います。特にオリンピックのように国際的なイベントでは、それが日本人全体の恥になるという感覚があるため、ここまで大きな問題に発展したものと思われます。

デザインの現場との意識の乖離

一方で、そうした日本人の意識が現実とずれている場合もあります。

今回の騒動で、多くの日本人が「デザインは毎回ゼロから創り出す」と考えていることがわかりました。しかし実際にはそんなことはありえません。例えばデザインというのは既にひとつの学問体系として認知されていますが、それは過去に生み出された数々のデザインから見出された事実を法則化したものです。これは当然他人のデザインを参考とすることを前提としています。さらに、もう少し狭い範囲の話でも、あるデザインを参照して、そのアイデアやコンセプトを利用し、新しい創作物を生み出すことも、デザインの現場では日常的に行われています。知的財産権法も当然そうした事実を想定しています。実際、デザインのアイデアやコンセプトを直接保護する法律はありません。例えば著作権法では、そのアイデアやコンセプトの「表現」しか保護しません。表現が保護されることで、結果としてそのアイデアやコンセプトが、その表現の範囲内で保護されることはありますが、アイデアやコンセプト全体が保護されるわけではありません。(なおデザインが物品と深く結びついているものについては、アイデアは意匠法による保護を受け得ます。)

そう考えると、今回指摘された佐野氏の数々の「模倣」には、そもそも著作権を侵害しないものもたくさん含まれていたことがわかってきます。だとすると、「佐野氏はたくさん模倣したから五輪エンブレムの作者として相応しくない」という指摘の前提を一部欠くことになるかもしれません。もっとも、単に他人の著作物を流用しているだけの、著作権侵害となるであろう模倣もいくつかありますので、その程度や件数のバランスで総合的に判断されるべき事項だといえます。

模倣はいけないというのは先進国民として正しい価値観だと思いますが、一方であまりに行き過ぎると現実と乖離したものとなってしまう可能性もあります。知的財産権法の観点からは、「やってはいけない模倣」と、「やっても構わない模倣」の両方があります。むしろ、知的財産法は、一定のルール内で積極的に模倣をさせることで産業や文化の発展を目指すことを目的としています。「模倣をしているから悪者」というのはかなり乱暴で危険だというのもまた真実です。

企業のリスク管理
発注企業の責任範囲

今回の騒動は、企業にとってもリスク管理を見直すきっかけとなる事例だと思います。

今回はエンブレムそのものには法的な問題はない(そもそも模倣でないか、仮に模倣でも「やっても構わない模倣」である)ものでしたが、デザイナーの過去作品に「やってはいけない模倣」があったことの影響を受けて取り下げに至ったものです。

企業がロゴやパンフレットのデザインを外注するときに、通常はそのロゴなどの権利関係はチェックしますが、外注したデザイナーの過去作品までを広くチェックすることはありません。発注企業にはそこまでの責任はないでしょうし、そもそもそのような調査は不可能なことが多いはずです。我々弁理士も様々な鑑定を行いますが、その責任範囲は対象となる技術やデザインのみで、作者の過去の活動までは責任を負いません(負えません)。

また、上述のように実際にデザインの現場ではそのデザインの一部に他人のアイデアやコンセプトを利用することは普通に行われており、それが「やっても構わない模倣」な場合にまで批判すべきとする価値観は、世界中どこにもないはずです。

パクリ問題への対応方法 – 初動が肝心 –

しかし今回のように、そのような「やっても構わない模倣」までもが批判の対象となってしまうと、もはや企業は怖くてデザインを外注できなくなるでしょうし、自社内でデザインすることはもっとリスクがあるのでそれもできない、結局あらゆるデザインの使用に大きなリスクがあるということにもなりかねません。実際サントリーなどは今回の騒動で一方的に被害を受けた形になっています(ただサントリーの場合は発注したデザインそのものに問題があったので確認不足の部分では一定の責任があるでしょうが)。

そういう意味で発注者側には頭の痛い問題ですが、今回は佐野氏本人を含め、JOCの対応のマズさが問題をここまで大きくしました。結局取り下げとなってしまったことを考えると、もっと早くその判断をしていればよかったのでしょう。逆にあのデザインでいくと決めたなら、雑音は無視しておけばそのうち沈静化したはずですから、中途半端に反応すべきではなかったかもしれません。そうした反応すべてが逆に新たな批判の火種を生んで、明らかに悪循環に陥っていました。

こういう問題はとにかく最初の判断が重要ですから、ケチらずに優秀な弁護士を雇って初動から一貫した対応をしていれば、もう少しソフトランディングができたかもしれません。「法的に問題ない」で済ませようとすると大きな問題となることがあるという、ひとつのモデルケースとなるでしょう。

東京五輪エンブレム問題の続報

先日「東京五輪エンブレム問題について考える」という記事を書いたところ、予想以上の反響がありました。

その後ロゴの創作者である佐野研二郎さんが会見を開かれたので、その内容を踏まえて続編を書いてみます。

会見の様子(動画)

さすがデザインの専門家、説得力があります。細かい説明は動画や記事を参照いただくとして、「要素は同じものがあるが、デザインに対する考え方が違うものでまったく似てない」という意見には着目する価値があります。

実はこの「一部の要素は同じだが、コンセプトが異なる」点については、ベルギーのロゴを作ったドビさんも同じ考えを持っているようです。現段階でソースがありませんが、昨日のニュースでそのような発言をしていました。類似する内容の記事がありました。

ドビさんの主張は、コンセプトは異なるが、自分のロゴには著作権がある、佐野さんのロゴは自分のロゴと類似するのだから、著作権侵害となる、という趣旨だと思われます。しかしこれは、少なくとも日本の著作権法の観点からはあまり説得力がありません。

著作権

前回の記事でも書きましたが、佐野さんのロゴを使用するとドビさんのロゴの著作権を侵害するといえるには、

  1. 佐野さんがドビさんのロゴを知った上でそれを利用してロゴを作成し(依拠性)、
  2. 結果として佐野さんのロゴがドビさんのロゴに類似する(=佐野さんのロゴがドビさんのロゴを変形した新しい著作物である)(類似性)、

といえることが必要です。

依拠性

つまり、そもそも佐野さんがドビさんのロゴを知らなかったのであれば、著作権侵害の前提(正確には要件のひとつ)を欠くことになり、著作権侵害をすることはありません。これはワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー事件(判昭和53 年9月7日)という裁判で最高裁により判断が示されたもので、それ以降これに基いて訴訟実務が行われています。

そして、この依拠性は、著作権者側、すなわちドビさんが立証する必要があるとされています。

佐野さんはベルギーには行ったことがなく、これまでにドビさんのロゴを見たことはないと言っています。それが正しければ、上述の通り著作権侵害とはならないのですが、問題はそう単純ではありません。

現実問題として、ドビさんが、「佐野さんがドビさんのロゴを知らなかったこと」を証明するのは極めて困難です。これは常識でわかると思います。他人が何を知っているか(知らないか)など、それこそわかりません。

そこで訴訟実務では、著作物が類似している(類似性を満たす)場合は、依拠性ありと推認して、立証責任を被告に転嫁することが多いようです。つまり、佐野さんが「創作時にドビさんのロゴを知らなかった」ことを証明することになります。

ところが、一般にはこれも困難です。いくら自分のこととはいえ、佐野さんは自分がロゴを知らなかったことを証明することはそう簡単にはできません。知っていた場合でさえ証拠が残っていないケースも多いでしょうから、知らなかった場合の証明はその何倍も大変でしょう。

そこで訴訟実務では、佐野さんが創作時(創作前)に先行するロゴをどれだけ調査したかを証拠として提出して、十分な調査をしたかを見ることにしています。もし訴訟になれば、佐野さんは「こういう範囲の資料を参照した(がその中にドビさんのものはなかった)」ことを証明することになると思われます。

なお、それならJOCが事前に商標調査をしたと言っているんだから、その調査資料が使えるはずという指摘があるようですが、おそらくそれは理論的に不可能です。

商標調査は通常調査対象となる商標が存在する前提で行います。つまりロゴが完成してから調査したのでしょう。

一方で著作権侵害における依拠性の調査は、創作前に他人の著作物をどれだけ調べたか(結果として知っていたか)を証明するためのものです。なので、創作後にした調査は依拠性の証明においては価値がないと思われます。

無方式主義の限界

したがって、ドビさんが主張するように、「どのようにしてロゴを思いつかたか(=ロゴのコンセプト)は関係なく、結果として似ているから著作権侵害だ」ということにはなりません。日本の著作権法では、まずどのようにしてロゴを思いついたかが重要なのです。ドビさんのロゴを知って真似したことが必要で、その上でロゴが似ている場合に初めて著作権侵害となります。

一方で、特許権や商標権などの産業財産権では、それらの権利の存在を知っていたかどうかは関係なく、結果として権利範囲の内容を実施や使用すれば権利侵害となります。これは、産業財産権が登録及び公開という過程を経るのに対して、著作権では一切の登録、特に公開がないことに起因しています。

商標権などの公開があるものは、商売をする以上公開情報を調査して権利侵害しないように注意する義務があるという価値観に基づいています。なので結果として類似してしまったものでも、権利の調査をしなかったことに落ち度があるので法的な責任を追うことになります。

しかし著作権は公開されないため、専門家であっても他人の権利を事前に調査することは容易でないことが多いです。そこで、他人の著作権の内容を知って敢えて模倣した場合に限って権利侵害するとしているのです。著作権者には厳しいと感じられるかもしれませが、そうでないといつ他人の著作権を侵害してしまうかわからず、怖くて誰も表現できなくなってしまいます。

類似性

前回の記事でも書いた通り、そもそも佐野さんのロゴはドビさんのロゴを翻案したものではないと思われます。

ドビさんのロゴは、ざっくりいうと中心の長方形と、左上及び右下の三角形様の図形、お世び外縁を定める円から構成されます。どの構成要素も基本的な図形ですが、これらの組み合わせ及び配置に表現上の特徴があるため、著作物足りえるものと思われます。

佐野さんのロゴは、これらの構成要素のうち、中心の長方形と、左上及び右下の三角形様の図形の組み合わせ及び配置において共通するか、少なくとも類似します。逆にいうと、それら以外のすべての構成要素はすべて佐野さんの独自の表現です。佐野さんのロゴには、右肩に赤い円という新規要素が追加されており、逆に外側の円は採用されていません。

ドビさんのロゴのように基本的な図形のみで構成される著作物は、それらの組み合わせや配置、配色などの大部分が共通するときに限り翻案となります。つまり、構成要素がありふれた図形の場合は、権利範囲は非常に狭くなるわけです。

ドビさんの主張は、下記の構造を含むあらゆる図形は、その用途に限らず常にドビさんの著作権を侵害すると言っているようなものですが、それは認められないでしょう。

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例えば小説などの文章の場合は、そのうちの一部分(例えば一章)が他人の著作物と類似していれば、その部分のみを切り取って著作権侵害を議論できます。

しかし図形の場合は、その一部の構成要素のみを抽出して著作権侵害を議論することは、一般にはナンセンスです。図形は全体でひとつの図形だからです。

佐野さんのロゴは、ドビさんのロゴと構成要素の一部が共通しますが、新たな構造が追加されるなど、全体としてドビさんのロゴとは類似しない別の表現と評価できるため、ドビさんの著作権を侵害しないと考えるべきと思われます。

なお、佐野さんの会見では、三角形様の図形が長方形に接しているかいないかという差異にも触れられているようです。たしかにこれにより両者の印象は異なるものになっているように思われます。また、ドビさんは書体が同じであると主張していましたが、佐野さんの説明では異なる書体のようです。そもそも共通する文字がTの一文字しかないので書体が類否判断に与える影響はそれほど大きくないと思いますが。依拠性の議論に影響する部分なので、この事実は意外と重要かもしれません。

意匠権

ところで前回記事に対して「五輪+エンブレム+意匠」というキーワードからの流入がいくつかあったのですが、これは問題となる意匠権の存在が指摘されていない以上、議論する価値はないと思われます。

そもそもロゴと意匠はあまり相性がよくありません。たしかに意匠法上の物品の形態には商品の模様も含まれるので、ロゴが意匠登録できないわけではありません。ただし意匠とはある物品の美的な外観ですので、そのロゴが物品の外観と密接不可分な特殊なケースに限って意匠登録する価値があるといえます。例えばロゴの形そのものをキーホルダーにする場合などは、意匠登録する意義があるかもしれません。物品の形状は複数選択できるがそれにロゴを付すような場合は、意匠権でなく商標権での保護を模索することになるでしょう。